六月は雨。新宿歌舞伎町一番街。コマを抜けて劇場通り。
日没から早数時間。
まちの灯は人を揺らす。梅雨の合間の晴れた夜。


不快指数を上回る関心の昂りに従い、わざわざ通学定期の区間外まで足を運んだというのに、彼の観た映画は実につまらない物だった。
目から入る退屈な情報を早々に遮断し拾った音の情報も期待値を大幅に下回る残念な代物で、そういう経緯があったせいか、上映終了後早々にのぼり始めた観客のざわめきがひどく耳についた。
苛立ちを外にまで漏らしてしまう前に。首に掛けていたヘッドホンをさっさと定位置に戻し、プレイヤーのヴォリュームを最大量まで上げ外へ急ぐ。
すでに日が落ちたはずの館外は赤絨毯のロビーよりも数トーン白い。

いっそ雨でも降っていれば、いくらかましだったのかもしれないのに。蒸し暑さに胸も腐る。駅につく頃には二十二時をまわる。学校帰り、何も口にせず映画館に入ったので腹も減っていた。
元噴水広場には自分と同じ学生服もまだちらほら。先程聞いた何を構成するにも役立たない雑音は、この人いきれを振り切った向こうでも、まだ続いて鳴り響いているんじゃないだろうか。そんな気がしてきてファーストフード案は頭から除外した。
ここまで来たら物のついで、トーアにでも寄ってもう一本観てもいいのだが……。と、巡らせているうちに交番前の大通りに出ていた。
左へ向かうか素直に右に折れ都営の駅を目指すかで立ち止まり、不意に顔を上げる。サングラスの向こうには、相も変わらずの電飾空間が広がっているようだ。

今更辺りを回ってみても仕方が無いし、空腹もここまできたらやがて無感覚へと折り返すだろう。そう高を括ってとりあえず駅のある区役所通り方面へ体を流す。
90度を旋回しきるとさっきまで前方にあった電飾も同じように旋回していて、光がフレームの脇から飛び込んできた。左手壁面は一際強くライトアップされている。消費電力の高そうな光線に裸眼を射される。照り返しの中に横目をくぐらせてよく見るとそれは壁ではなく大きな看板だった。もはやこの通りの景観の一部と化し、ある種名物にもなっているらしい。
東京のビル群そこかしこに掲げられているアーティストやファッションモデルを被写体にした宣伝看板に比べ、随分と砕けた印象を歩行者に投げ掛けている。だが見る者を除けばほとんどの者が目に入れてはいない。

――ホストクラブか。

季節よりも目まぐるしく変わるこの手の看板は、雑居ビルに白看板が増えても尚一向に減る気配を見せない様子で、これらによって今この街がどのような容貌を好み、どのような風俗を中心に人と金が流されていくのかを、はたから窺い知る事が出来るという。
いつ以来眠った試しがないのだろう、この街は。
彼が歌舞伎町に点在するライブハウスへ顔を出しはじめた頃から、絶えず流れるむっとするような夜の匂いは変わらない。
不規則に間隔を空けて処狭しと並ぶホスト達の引き伸ばされた顔を横切り、次に見える頭部へと視線を移していく。様々な顔に様々なコピー。そのどれもが頭に残らなかったが、今この業界で主に手引きとされているスタイルブックは案外自分のと似たルーツの物かもしれないと、自分も毎朝逆毛を立てているのを思い返してみて少し可笑しくなった。

色髪・長髪・立て髪・盛り髪と派手な面々を通り過ぎ、二丁目の風合も色濃くなりはじめたあたりで、一枚の写真が目を引いた。正確には一枚という表現は当て嵌まらないのかもしれない。看板の中の一人なのだから、看板そのものを一枚とカウントするべきだろう。同店で現在ナンバー入りしている者を並べているのか、大小の区切りの中に十名ほどの顔が並ぶ。人物以外の配色をモノトーンに纏め全体的に引き締まったイメージは、HMVやタワレコに時折並ぶポスターに近い。
件の人物が写っている場所は看板の中央部で、素人目に見ても扱いが大きい。成績の優秀な者なのだろう。だが明らかに他の区画とは温度差があり、サングラスをずらしてみたが色数も抑えられているように見えた。
無造作に切り透かされた黒髪は僅かに左が長く、左目を隠すように流されている。
肌の色は不健康とまではいかないが、撮影時に用いられたであろうライトの分や写真に掛けられた効果を差し引いても充分に薄いようで、周りと比べてみればその差によって窺い知る事が出来る。

――随分とあっさりした風貌。着ている物さえ替えればうちの学校にもいそうでござる。

なのに中央にいても遜色を感じさせないのは、黒いスーツの中の紫紺と右よりも少し口角の上がった左頬が、大人びた雰囲気を引き上げているせいだろうか。
無意識のうちに緩めていた足取りが完全に止まる前に、看板は視界を後ろに過ぎていった。視点を正面に戻し、またさっきと同じ歩調で歩き出す。

喧騒はヘッドホンからの音楽によって遮断していたが、人の量や動きを見れば再生してみるのは実に易い事だ。自分の背負っている荷物が邪魔になるのを嫌い、なるべく足早にならないよう気を使う。風林会館を左折し、区役所通りを少し上った頃には空腹は諦めに入っていた。
この通りにもやはり人は多く、歩道を蛇行する酔客の姿も目に入る。もう少し下って早々に向こうへ渡ってしまおうと考えていた矢先だった。
右肩にかけていたギターケースが痞え、道の先に差し出していた足が地を踏む寸前で止まる。足を戻し身構える用意をして首だけで振り返る前の動作をとる。嬉しくない事だが、場所柄風貌柄、絡まれるのには慣れている。と、さらに今度は後ろに引かれ、下方に傾くケースの先端に指が見えた。体ごと翻しながらプレイヤーをオフにする。

「なんだ。学生か」

ヘッドホンからの音に掻き消されずに聞こえてきた第一声はそれで、そこにあったのは先程見た顔だった。
顔と指に交互に目をやると、滑らせるように掴んでいた手を下ろす。
違ったのは、隠されていた左前髪の下にはっきりと眼帯が確認出来る事、それと服の色ぐらいである。
予想と反し険しくはない相手の様子にこちらも若干強張りが取れる。
たださっき受けた――学校に居てもおかしくない――という所感は返上しなければならない。鼻に掛かるほどに伸ばされた前髪分け目から覗く右の瞳が、少年らのそれとは違って見えた。

「名前は……たしか晋助」
「なんで知ってんだ?」
「そこにデカデカと……」
「?」

驚いたのは確かであったが、唐突に自分も何を口にしているのかと思う。よくよく考えてみればこの界隈で働いている者以外の顔ではあり得ないのだし、見掛ける可能性は他所より高い。だがこれでは相手方から訝しく思われても仕方無い。知り得た経過を伝えた方が良いと思い指を上げる。

「あそこの、ほら、角を曲がって」
「あーあれか」

『晋助』にとって自分の顔を大きく引き伸ばされ人口密集地帯に張り出されるというのは、普段から気に掛けるほどの事では無いらしかった。自分の名を出したのが女性だったらピンとくるところかもしれないが、彼は男性で学生だ。
晋助は一瞬差した指の先に目を向けたが興味無さげにすぐ視線をこちらに返してきた。立ち去る様子も無い。

「名字の方は失念した。本名でござるか?」
「さぁどうだろうな。お前だったら本名でやるか?」
「む……」

あの看板の目立つ位置に印字されていた名が本名であれ源氏名であれ、それが本名で出来る事であれ憚られる事であれ、今後同じような職に触れる事があったにしても、現時点の彼にとってはいささかも関わりの無い事である。自分の質問も多少不躾だったのかもしれないが、質問を質問で返されるのはあまり気分の良い物ではなかった。

「名刺やろうか?」

にっと上がった口角に微かな苛立ちを覚える。

「必要無い」

男のこういった、遇う……ともすれば賺すような、不可視下に両極をはらんだ態度が妙に鼻につく。
まるでその様は自分にのみ超過して許容された酌量の及ぶ範囲を知っていて、上限を試しているようにも見えた。それをありありと感じさせる言動も作為的で虫の好く物とは言い難い。なのに、

「お前は?」
「河上」
「下の名前聞いてんだ」
「……万斉でござる」
「ばんさい、な。ちょっと付き合えや」

このやりとりの数時間後には男の部屋でシャワーを浴びる事になっていた。




万斉も経験が少ないわけではない。同じ年頃の男子の平均値なら二年も三年も前にクリアしていただろう。だが、目の前でつむじを揺らして自分の胸や首をなぞる男が踏んできた場数には到底及びそうもなかった。

さ、と視界の左を縦に割ってかき上げられた前髪の奥に、伏した瞼と突き出た舌が見える。頬に向かって伸びる睫毛、舌先に触れる自分の肌。この距離で見れば男も女ももういっそ関係無くて、ただ造詣や質感の優劣だけが情動の高鳴りを操作するようだ。万斉は初めて知った。
おそらくこの状況下で課せられているであろう役割を投げ遣り、不甲斐なく声まで漏らしてしまいそうになる。荒い息を誤魔化すためと体面を保つため、慌てて出した問いは自分でも呆れるほど幼い物だった。

「……男と、寝るのは?」

平静は繕ったつもりだが、声に出してみてやはり取り消したくなった。そんな万斉を尻目に見る事も無く、這わせた舌を離して晋助は答える。

「ん? はじめて」
「嘘でござろう?」

今度は舌を口まで戻して上目遣いに万斉を見上げ、感情のあまりこもらない言葉をこう返す。

「どっちでもいいじゃねぇか」

華美なシャツとスーツを脱いだホストは学生服に近付くどころかますます遠くなっていた。写真が持つ情報というのは全く宛にしてはいけない物だと思い知る。
くくっと喉を転ぶような笑いが、万斉の耳に響く。

洗い場の床に転がされたシャワーから噴き上がる熱い湯は広い浴室を徐々に湯気でたるませていく。
裸の男二人が重ならなくても広い浴槽はマンションのエントランスをくぐった時点で想像がついた。
そう数の多くないボトル類が無機質に並んでいるのを見てみても何もかもが今までの経験とは違う。

「気のらねぇ?」

顔を上げ、今度は晋助の方が問う。生理的な反応とメンタルな部分とが裏腹になる時もある。そういう事は往々にしてあるものだ。同性としてそういったちぐはぐに気に掛けてくれているのかもといえばそうかもしれない。言葉だけを聞けば。
しかし。壁際に追いやられていた万斉の体を細く締まった腕が両側からさらに追い込む。万斉の頭部を挟んで壁を押す両腕の重圧感はまるで言葉と逆行していた。深々と視線が突き刺さる。

「せっかくチャンス与えてやってんだぜ?」
「チャンス?」
「お前さっきむくれてただろ」

それを自分の体でもって意趣晴らしさせようという理論だろうか。

「……だとして何故こう繋がる?」
「おかしいか?」
「…………。
 声を掛けてきた理由もまだ聞いていない」
「そりゃてめぇが聞いてなかったんだろ」

挑発じみた態度は続く。声にこそ現れていないものの下方から焚き付けるように見上げてくる右目は頑とした絶対性を宿している。有無を言わせないといった様子を見せると同時に、反応を急かされているような焦燥も湧き起こさせる。

「じゃあ改めて聞く」

暗示の通りに喋らされている気分だ。これではどのように長い問答を挟んだとしても、終局は今の時点ですでに予測がつく。

「ここまで来て野暮だなお前も」

やはり求めていたタイプの返答は返ってこない。
晋助の体が一層近付いてきたかと思えば、肌同士の触れ合う僅か手前で弾けるように引き返した。ゆらりと視界を揺らすような動作だったが、常にお互いの表情を確認出来る程度には間合いがあり、自ずと決めたわけではないが万斉は一度も目を逸らさなかった。

「理由なんざ後付けでいくらでも作れるだろが」

だがその間一つも揺るがなかった晋助の真っ直ぐな視線からも、滑るように放たれた一声一声からも、彼の内心を探ることは出来なかった。目の中から外れた体はそのまま浴槽を跨ぎドアに手を掛け、再び万斉を一瞥する。

「それでも聞きてぇの?」

今にもドアをすり抜けようとしている晋助の体を追って、浴槽の中を一歩踏み出し、万斉は静かな声を上げる。

「ああ。後付けで作る前のを」

まだ相手の型にはまったままだとわかっていて諦めが悪いと、誰よりも自分がそう思う。

「じゃあ。特に無い、だな」

くちびるを弓なりに結い上げ、晋助の一糸纏わぬ体は床に薄い水の膜を落としながら、開け放たれた廊下の向こう、室内灯の灯されていない闇の向こうへと吸い込まれていった。
取り残された万斉にとって全く勝手のわからない家。予定調和に動かされる苛立ち。冷静になってみるという行為こそ難しいが、どうにかそれを取り戻すよう床を這うシャワーを拾い会話を反芻する。自分がここへ着いてきた理由だって問われて答えられるように形があるものではない。
そして確かに、ここへ来てしまっては今更だ。


脱衣所の灯りすらつけていかなかったのは戻ってくるのを暗に示唆しての事だろうと思った。時を置かず予測の通り、晋助は再び浴室のドアをくぐった。
背後で水を踏む音がする。自分の顔を叩く飛沫とは別の音。
先程の短い応酬の最中も、寸でのところで予想を上回らない晋助の言動に、万斉は妙な安心感を見出し始めていた。
閉じた瞼の裏側に模られた人の気配には、くっきりとさっきまでの顔が納まっている。

水流から顔を抜き、眉や睫毛の間を流れるシャワーの残りを薙ぎながら濡れた髪を耳の後ろに追いやる。
振り返った先にあったのは出た時のまま水滴以外を纏わぬ姿だったが、左手に赤い実を浮かべた硝子の器を持っている。
晋助は蛇口を捻り万斉の手の先の水流を止めると浴槽のへりに腰を掛け脚を組み、水圧から逃れて軽くなった客人の右腕を引いた。姿勢を下げろと促しているようだった。万斉は右手に持っていたシャワーをフックに戻し、壁に背をつけ空の浴槽の中に腰を下ろした。
見返りの格好で万斉を見下ろす晋助の顔は逆光によって少しだけ翳っていた。湿った毛先が少しずつ束になっているが左前髪の奥は依然として眼帯に覆われたまま。白いガーゼの下はどうなっているのだろう。

「腹減らねぇ?」

不意に晋助の口が開く。
言われてみて、そういえば僅か数十分程前まで自分の胃は空腹を訴えていた――と思い返す。
ことりと音を立てて傍らに下ろされた器には大粒のアメリカンチェリーが敷き詰められていた。桜桃の一種だが、日本原産の物とは随分と趣きを違えている。茎と種を抜かれくたりと煮崩れた実の隙間を色の無い液体が埋めていて、実を覆うアクリルのような鈍い光沢がこの液体の滑らかさを物語っている。

一つ。実を摘む。楕円を保っていた輪郭はひしゃげ、実の腹から垂れた液体が艶めくような動きを見せて、ぐにゃりと晋助の指と器を繋いだ。無色透明だと思っていた液体にはほんのりと桃色が染み出している。器の置かれている太腿の位置から口の中に運ばれるまでに、いくつかの緩いしずくが落ちた。それには構わず晋助は閉じたくちびるの中で歯を噛み合わせる。頬の微細な揺れに口内の動きが伝わる。万斉はその様子をじっと見ていた。

晋助も万斉を見ていた。まんじりと視線を動かさぬまま、また再度無遠慮に指を突き立て、器からもう一つ赤い実を取り上げる。
浴室の柔らかい光を照り返す指先の赤は、白に挟まれいっそ黒くもあった。
晋助の指と赤黒い一塊に押し開けられ、万斉はくちびるを割る。指に実に自身のくちびるに、のっぺりと巻きついた薄い膜はやはり砂糖を溶いた物のようで、果肉の持つ糖度をより鋭利に研ぎ万斉の舌の上を引っ掻く。よく熟れた色の実にこれは必要なのか。相乗によって倍増された甘みは想像以上に攻撃的である。

万斉の口から引き抜いた指を吸う晋助と、この気の狂ったような甘ったるさは、一見して共存しないように思えた。彼と彼の味蕾はこういった物を欲するようには見えなかった。
最低限だけ実を噛みこなして、早々に食道へと流し込む。
万斉の喉骨が上下したのを見て晋助はにやり、片頬を吊り上げた。器を持ち上げ組んでいた脚を解き浴槽に入る。壁に背を凭せ掛けていた万斉を挟んで立ち、晋助はまた一つ実を口にした。垂れたシロップが血痕のように万斉の腰に広がる。

「今これ持ってきてこうやって食ってんのは俺も腹が減ってたからだ。
 お前も食ったよな」

唐突な切り口に万斉は耳をそばだてた。斜度を増した視線の先は完全に逆光に捕らえられていて表情は陰の向こうにあったが、頭上に降る声色からとくに変貌を遂げた様子は伝わってこなかった。

「腹に納めるまでの経緯は違っても、物食う理由に大差なんてあるか?」

晋助は膝を折り、万斉の腹部に跨った。薄く筋肉を乗せた胸板が万斉の視界前方を塞ぐ。浴槽が広いとは言えさすがに圧迫感がある。
馬乗りになられた事によって確認出来るまで近付いた顔はやはり笑っていて。冷たく醒めた余裕を湛え、細めた目で万斉を見据える。
先程求めた答えは食物に置き換えられたようだ。見解の相違を差し引ける程にもお互いの事を知らない仲でひどく解りにくかったが、これだけは確かに把握出来た。晋助には状況を別の展開へと移す気は無いらしい。
左手を万斉の顎下に添え親指を口内に差し込み犬歯を撫でる。指は微かに甘く、投げ付けられた理屈よりも強引に頭を上向かせる。親指を奥歯へ滑らせ続いて割り入ってきた舌に、万斉は顎をほどいた。
されるがままに受けた性衝動を刺激する為だけのキスはこれまでに味わったどのキスよりも甘美で排他的だった。
晋助の舌は開放を確認するように歯の裏側まで伸びてくる。

「腹。減ってんだろ?」

そう言って晋助は器を左手に持ち替えると万斉の口にまた一粒、黒くて赤い実を押し付けた。壁際にいる万斉には最初から後が無い。返事をする代わりに口を開き指ごと実を招き入れる。さっきと同じように数回だけ実を噛んで喉に流す。
万斉の口の動きが止まったのを見た晋助はまたさらに一粒を万斉の口内へ投じた。そして今度はすぐに指を放し、自分の口にも同じように実を運ぶ。赤い実が晋助の口に含まれるのを万斉は黙って眺めていた。三度ほど顎を上下させたところで、対面で似たような動きをしていた晋助の顔が近付いてくる。くちびるを寄せ口の中の物を万斉に預けて、晋助は言った。

「お前も舌使えよ」

目を細めて再度万斉のくちびるに舌を割り込ませ、どちらの物だったともつかない果肉を攫い、それを繰り返した。万斉がつられて舌を絡ませてもやめなかった。

度を過ぎて甘い物は好みではない。甘味と苦味が混濁し、味覚の根幹が崩壊する。もう要らない。だが口腔は甘い実とともに押し入る舌を受け入れる。
二つの歯輪を行き来しどろどろに溶けた蜜と実が、喉を滑り、顎を伝って首を伝って胸に流れる。
傾いた器からシロップが零れる。実がどろりと垂れ落ち、一粒は重なる胸に挟まれすり潰されて、二人の皮膚を赤く汚した。一粒は万斉の鎖骨に残った。晋助はそれをくちびるで拾い上げ万斉の口に運んだ。シロップでコーティングされぎらつきを増したくちびると粘稠を増した黒髪が薄惚けた意識に鮮烈だ。

「ん……。
 これでは……」

これではどちらがどちらに体を差し出しているのか――。
どちらの唾液も粘膜もシロップの味に染まっていて、もうどちらの物かわからなかった。
それでも晋助の強制的な給仕と食事は終わらない。
やがて実を摘み出すのが面倒になった晋助は、くちびるの高さに器を掲げ手首を返した。器の中の全てがどくどくと皮膚を伝って零れる。
口許も胸板も腹も股間もべたべたに粘ついて、びかびかと浅ましく光を照り返した。二人の接触面はさらにひどかったが、晋助は構わずに万斉の胸に乗り上げてくちびるを啄ばんだ。
舌に絡むくどい蜜が下腹部を強く突き上げる。口内をちりちりと焼くような糖の香り。浴室の熱は上昇し、舌の根は腐り落ちてしまいそうだ。

「晋助……」
「――ん?」

万斉は背を起こして、晋助の両脇から腕をくぐらせた。
一種、観念にも近いような心境だった。だが観念と自らの成り行きに動機付けをしてしまうのは小賢しいような気もした。ここ幾許か耐乏を課されていた指が馬鹿正直なまでに肉を求め掴む。
背中に回し交差させた腕で晋助の双肩を押さえ、晋助のくちびるを覆い返した。至近距離で閉ざされた瞼の白い皮膚を薄目で盗み見る。舌裏を舐めるときゅっと強張った。瞼の反応を見ながら右手を滑らせる。背中を走り脂肪の無い胸の上で小さな円を描き徐々に曲線を下降させる。恐らく最も反応が強まると思われるあたりに差し掛かったところで晋助の手から器が落ちた。背後に立ったのは至極地味な音で、“落ちた”より“落とした”が正解であろう。
晋助はがら空きになった両手で万斉の頭部を抱きかかえた。溜め息のように大きな息が耳に掛かる。


いつの間にか実は全部ばらばらになって口中から消えてしまっていた。それでも尚双方は互いの舌を咀嚼するように貪り合った。
胃に流された微量の食料は視床下部の統御下に膨れ上がり、やがて更なる空腹の呼び水となる。
もっともっとと臓腑の底から競り上がってくる欲求のままに食らい付いた。衝動と同じ強さで体を抱いた。

「……ん……っう――」

晋助の喉から呻きが漏れる。耳に響いたと同時に万斉は身を乗り出して、晋助の上半身を浴槽に倒した。
飢渇感とこれとは似ている。蜜の通った道を辿る。
そして繋がらないように見えた二つも、実は隠微な共通項を持ち同じ傾向の上に存在しているようだ。どちらも毒々しさと引き換えに強烈な中毒性を有する。刺激してくる場所が違うだけ。気付いてしまえば解りやすい話だ。

「要は……本能的な事だと言いたいわけか?」
「難しいこと考えんじゃねーよ」





空調の乱れがあろうわけもなく眩しい光が射したわけでもなく、ただ寝返りを打った際に着地した場所が平坦だった事で晋助は目を覚ました。
ベッド脇に置いた電源が入っている方の携帯を持ち上げ時間を確認したが七時にはなっていない。
目を開けて改めて隣が居ない事を確認し、定まらないこめかみを押さえ寝室を出る。薄暗いよりももっと暗いリビングを渡ってキッチン横のドアを開けると洗面室のドアの下辺から光が漏れている。常夜灯をオフにしている廊下の奥、その光によってどうにか見渡せるようになった玄関先に目を上げ、昨夜万斉が背負っていたギターケースの存在を確認する。

廊下に短く伸び出た光を踏み跨ぎドアを開ける。万斉がいる。昨夜脱ぎ散らかさせた制服を着込み、ネクタイの襟元を正している。寝巻きにと貸したTシャツは、脱衣籠が見当たらなかった末そこに落ち着いたのか、シャワールームの入り口脇に律儀に折りたたまれていた。

「起こしてしまったか?」
「いや」

耳に下りた髪には寝癖を直そうとした努力か水の跡が覗えた。まだ少し跳ね上がってる後頭を見て――使えばいいのにと思ったが、ここには万斉の好みそうな整髪料は無い。

「早ぇな。どっかいくのか?」
「学校がある」
「やめちまえよ」
「そういうわけにはいかない。大学入試のための必要資格でござる」

鏡から目を離して晋助に振り向いた顔は、昨夜の印象より数段大人びていた。髪型一つでガラリと雰囲気が変わる。

「ふぅん。舐めてかかってるクチかと思ったけど、意外に真面目なんだな」

踵を返しリビングに向かう晋助の後を追うようにして万斉は答える。

「手段の一つでござる」
「手段?」
「素養を積むのに手っ取り早い」

微かに万斉の口許が笑う。

「技術や理論……知識。人の中で得られる物はそれだけではないし、
 身につけていれば後々役立つ事もある」


高校生という年のわりに随分悠然と笑うものだと晋助は横目で流し見、キッチンに入った。リビングを照らす照明のリモコンはカウンターの上にあったが、シンクの弱い光だけで充分だった。

「……なるほど。馬鹿じゃねえみたいだな」
「馬鹿に見えていたか?」

冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをあおる。500mlペット半分ほどを飲み下して正位置に戻った顔は開いたままの冷蔵庫の中を見ているようで何処も見ていない。

「俺と寝るのは男も女も馬鹿ばっかりだ」
「……」

本人は知ってか知らずか晋助の台詞は棘交じりで、万斉の鋭敏な耳にはそれが虚しい溶暗のように響いた。
言葉を出そうか、それとも腕を伸ばそうか迷う。そして同じくらい、この状況を躊躇している自分に戸惑う。だが残響が消え入る前に万斉を見上げた晋助の目には、既に違う音が浮かんでいた。

「見所のある馬鹿もいるんだけどな」

目とくちびるから漏れる鬱蒼として淫靡なセレナーデ。在り得ない例えだ。
何にせよ古い思慕を漂わせる響きに、何故か苛立ちを禁じ得ない。自分に向けた目の中に過去を誰かを映しているように見えた。
深く睫毛を下ろしまばたきをする真顔は、それまでに見せていた人工的な笑みよりももっと優しく澄んでいた。

「……なぁ、晋助―― っ」

勢いのまま静かな感情を走り出させそうになった万斉の口に、晋助はひんやりとした塊を押し付ける。

「おい、俺以外の奴と……なんてのは――」

冷蔵庫から取り出していた昨夜の残りの一房が、依然万斉の言葉を遮る。

「――せめてこれ上手く結べるようになってから言えよ?」

語尾上がりに囃して、晋助はそのまま柔らかく閉じていたくちびるの奥に、茎のついたままの実を押し込んだ。くちびるに着くまでの僅かの間にちらりと見えた実の色は同じような赤だったが、その実は蜜を纏わぬ素体のままだった。
開いた歯を戻そうと圧した実は未加熱だという事を念頭に置いても思いのほか固い。抵抗を噛み砕いて切り離した果肉から、冷たく酸い果汁が万斉の口中に広がり喉を収縮させた。口外へ追いやろうにも晋助の指はまだ果実から離れておらず、熟れきっていなかった青味の残る実を仕方なくすり潰す。
万斉が口の中に頬張ってしまったのを見て、やっと晋助は指を退けた。

晋助の言葉は明確に万斉の心裡を言い当てていた。
自覚したのは言われてからだが、昨日出会ったばかりの人間に……馬鹿げていると思う。一度体を重ねたぐらいで独占欲など、ついぞ見出した事の無い感覚だった。
離された指はそのまま下へ戻る事はせず、掌を開いて万斉のうなじ辺りに添えられる。

「ナポレオンって品種らしいよ。そいつの青いのは生食向きじゃないらしいわ」

あいつどこで買ってきやがったんだろうなくくく、と晋助は続ける。知った事では無いと万斉は眉間を顰める。出会い頭から感じていた晋助の故意犯的な振る舞い。こちらの出方を面白がるためにわざわざ声に出している事ぐらいは万斉にもよくわかった。そしてそのたび、自分の反応がいちいち滑稽である事も。

ペットボトルを置いたもう一方の掌も肩を越え背を滑る。
まだこの男には盾突くような口は利けそうにない。昨晩から解せないほどにリズムが変わる。普段、自分のペースに合わない物には特別な興味を抱こうとはしない万斉だったが、この相手だけは別のようだった。調子を狂わされるのは不愉快だが後には引かない。
この男のバリエーションに全てついていけるようになれば、さらにその先が聞けるようになれば、さぞかし小気味良い事だろう。聴覚が脳に上程する。

下半身の辺りに突きつけられた腰に掌を添える。晋助はゆるやかに踵を上げ、万斉の口から伸びる茎を舌に絡めてぷつりとひっぱった。
昨晩の情交時からすればほんの僅かの間だけれども、触れたくちびるは冷たく適度に水分を含んでいる。

少し俯いた後、万斉の目の前に差し出された晋助の舌には結ばれたさくらんぼの茎が乗っていた。

口内に持て余していた実から種をはがし、ゴクリ――飲み込む。種がまだ残る。
嚥下の音をすぐ傍で聞いた晋助は満足そうに顎を上げて万斉のくちびるに吸い付いた。手首を返し万斉の頭を自分のくちびるに押し付けるように抱え、指と舌両方で万斉を挟み弄った。器用に口内の茎と種を交換する。上くちびるだけが一度離れた。ずっと至近距離でかち合っていた視線を遮断するように晋助の瞼が落ちる。万斉の舌から茎を絡め取り、二つの遺物を掌に放り出して捨てた。

「遅刻くらいはいいんだろ?」
「……ああ」

短い返事をしながら、巻きついた体をリビングへと追う。
トランクスからすらりと伸びた脚がわざとらしく縺れて歩行の邪魔をするので、万斉は晋助の腰を抱いたままそのまま床に倒れこんだ。
傾斜しゆく中、ゆっくりと身長差分を縮め、影は一つに混ざった。

遮光カーテンからそれでも漏れ入ってくる光に射された踝を掴み脹脛にキスをする。
夜の住人には似合わないかと思っていた時間帯だが、存外そうでも無いらしい。
先入観もばらばらにされた後に残ったのは万斉好みの分厚いグルーブで、その上を何者にも干渉されずに鳴り響くグラマラスな生音で。名前以上の事を知りたいと、求める理由はそれだけで充分だった。






ホスト高杉と高校生万斉でした。
チェリー企画様へ。感謝と敬愛を込めて!
…だったのですが企画からは下げていただきました。
私自身なかり日が経ってから知り、それから対処していただいたので、読まれた方も何名かいらっしゃるとは思いますが…。
中盤のエロ(?)部分の内容がぱせりさんの既存のお話しと被ってました。すみません;
みずきさん、お手数掛けて申し訳ないです!