-星見る恋人-



「坂本ぉ」
「んー?」

せっかく声に出してやったのに、相手は生返事で首の角度さえ変えようとしない。

寒空の下。大きなロングコートの中。
相手の胸にぶつかった白い息は上昇せず熱い蒸気に変わり、巻かれた大判のカシミアの中にこもる。

寒空の下。星はよく見えるか?

時間が無いからと、向こうの乗ってきた小型の宇宙船に乗り込んだのがまずかった。
甲板のある、この星の海の船のような。
短縮するつもりだった時間は星空に吸い込まれて、もったいないと呟きながら刻々と砂を落としていく。

高い背。少し踵を上げないと、顎までも届かない。
口が、舌が。
下顎を覆う湿り気のおかげで、マフラーから外に頬を出すのは躊躇われる。
耳の落ちそうな夜。

それでも幾月かぶりの逢瀬。
セルフ加湿マスクから首を伸ばして、途端に震えだした歯の根に力を入れて、ゆっくりと発音する。

「坂本ぉ…辰馬ぁ…」
「なんじゃあ?」

右脇に回された右腕がその辺りをさするように上下する。
コートの前を押さえるため、露出した辰馬の手指。なんで手袋をしてこなかったんだ馬鹿野郎。
すぐにまたマフラーの中に顔を埋めた。

辰馬は満天の夜空にご執心だ。
ち、なんでこんな日に。
冬の空はちりぢりと宝石を撒いたようで、大気の何かが変わるのか、他の季節のそれより一層星の群は瞬きの回数を増やす。辰馬にとってここから星空を見る事は、我々のそれとは違う。見上げるというの自体、年に何度と訪れない機会。
そして、今日の星空は美しい。
見ようとさえ思えばいつでも見られる俺にとっても。

手の届かない場所にあるあれらは、寄ればこの地上を吹きすさぶ風よりももっと冷たそうで、触れれば皮膚を溶かしそうだ。
そんな事は到底無理なんだが、触ってみたいと思った事ならある。
あの星々は人を焦がす。知る由も無い。自らは輝き続ける。

コートの中の腕を辰馬の腰に回し、両手を重ねた。
上等の布の中に包まれていた指はここへ来る際のと同じ物とは思えないほど温かかった。

たつ、、、もう一度口にしようとしたが、最後の一文字を飲む。
再度顔を上げた途端冷気が蒸気を凍らせる。マフラーの中にあった鼻から下が一瞬にしてしばれる。
見上げるとサングラスの下の辰馬の瞳は、どの空より深く、

「お前、グラサンなんかしてたら見えないだろ…。」
「ええんじゃ、上からちゃあんと覗けちょる。」

いつもの子供のような瞳が、色付きのレンズをそれでも通過してくる光よりもぴかぴかと煌いてみえた。

こいつの傍は暖かい…。
ぴしと凍てつくような空気も、こいつが傍に居ると暖かい…。

踵を上げ、後頭を下げて舌を伸ばす。
自分の舌は見えないけれど辰馬の見上げていた星空が俺にもよく見える。
辰馬の皮膚についた時点で軽く噛み付いて、顎の端を口に含んだ。

「なんじゃあ晋ちゃん、構ってほしいんか?」

無邪気な問いには本当に邪気なんて無いようで。
当たり前だろって言葉を吐けない俺の方がよっぽど天邪鬼だ。

さっきまで夜空を見上げていた瞳がこちらに降ってくる。
いつもなら頬にやられるはずの手は俺の背中でコートを押さえたまま。
でも、首の自由は自分の狼狽によって見つけられないまま。
サングラス越しに見える優しい眸に吸い付けられるように動けない。
何度体を合わせようが、こういうのは照れる。こいつに限っては。

そうして目を逸らせないでいるうちに、辰馬の頭の位置が下がった。
さっき自分がされたように俺の顎を舐め上げしゃぶりつく。
くち、と音を立てて。

「こがな事したらこそばいろう?」

す、と離れた口は咎めるような言葉を舌に乗せ、間逆の笑顔でまた俺を見下ろす。

「おお、すまんな。こがな格好で抱きすくめちゅうから晋ちゃんには星が見えにくかったのう。」

わかってて言ってるのかやはり天然なのか。本当はわかってて言ってるんじゃないだろうか。悪戯っぽく笑う目や口元がそう思わせる。
それに言うだけ言って回した腕を解こうとはしない。

レンズの奥の目を細めて、顔を俺に向かってゆっくりと下ろす。俺も目を閉じて、辰馬の白くなった口唇を受け止めた。

「晋ちゃんあったかかぁ。」

そりゃそうだ。お前よりは防寒具を有効に使ってたんだ。
また一度空を見上げてこう言った。

「それにしたちひやいのぅ。
 出したら風邪ひいてしまうぜよ。
 こんまま部屋まで行くとするかの。」

コートの外に俺を出せば俺が風邪をひくと言う。
それなら最初からこんなところに呼ぶな。

「宙の見える部屋があるきに。」

そういって辰馬は進行方向に背を向けた俺の踵を甲板から浮かせた。
俺の恋人の、宙は恋人だ。