-月迄お出で甘酒進じょ-



水に揺れる月―
俺―
高杉―

そんな月の夜がいつまでも続くもんだと、お互いがそう願っていると、信じて疑わなかった。

今水面に映る俺の隣には、高杉の姿を包み隠すような闇―
揺れる月―
俺―

闇を払ったところで、高杉の姿は無い。
そのまま地に項垂れそうになるのに逆らって、空を見上げる。

月の中で懐かしの人が言った。
―「お前達を見てると退屈しない

はは。そっちは案外過ごしやすそうじゃねーか。何よりだ。







「銀時ィ、呆けたのか?その若さで惜しまれるな。」


耳を割る不意の声。
反応は弾けたゴムのように早く体は捩れる。
目は首よりも早く斜め後方へと走る。
耳ではない器官で何度も、繰り返し巻き戻しては聞いた。
そこにあったのは思ったとおりの声の主。
募る思慕の中心。

あの場所から俺達の隣から姿を消した―
再会後ついには見えなくなってしまった―
今となっては夢想だと一笑されても可笑しくもない―
遠い遠くからの思い出…

手放しに開いていた瞼を一度細めてから再度見開いた。
これは夢か幻覚かと事実の否定も考慮に入れて。
が、点よりも小さくなった瞳孔に映っているそれは。
己が作り出したヴィジョンでも何でもなく、そこに存在する生身の高杉だった。



「…高杉!てめ、なんでこんなところに…」

咄嗟に出る言葉などせいぜい知れている。
それよりもそう間も置かず声を出せた自分に銀時は驚いた。
高杉はその何が可笑しいのかもわからない表情を崩しもせず、古木の幹にもたれ佇んでいた。

「…てか、酔ってんのか?」

高杉の頬は青い月光の中でも見て取れる程に朱に染まり、しじまに酒気を撒き散らしている。
ひっく、と一つ肩を弾ませて目を細め、下弦の月のように口を開く。

「てめぇこそ酔ってんのかぁ?
 杯一つ持ってるわけでもねぇのに一人でブツブツ。
 思わず声立てて笑っちまったじゃねぇか。」

一息に紡ぎだされた言葉に、むっと不機嫌を表せば良いのだろうか。
それとも照れを両頬に満たせば良いのだろうか?
わからなかった。
実際酔い醒ましにこの池のほとりに来たわけだが、
さっきまでは呑んでいた、
と言い返すのもおかしい。

静かに水面にたゆとう月に、懐かしさの余り思いもよらず声となってしまった心のひだ。
一人芝居、独り言。

確かに。
すっかり抜けたと思っていた先刻の酒が、まだ残っていたのかもしれない。


皮肉の一つも上手く出せず、いつもの調子にいまいち調整しきれない。
次の言葉のやり取りに詰まっていた銀時に構わず、高杉は視線を上方に外して呟いた。

「まぁるいなぁ。」

子猫のように声を転がせて、瓢箪を片手にやはり酔っているのであろう…小さく反動をつけ幹から体を浮かせる。
覚束ない足取りに支えられた腰はゆらりと空間を歪ませながら近付いてきて、やがて銀時の隣に落ち、反動も付けず背を地面に預けた。

「お前ねぇ…。」
「ん?」
「今度会ったら斬るっつったろうが。俺達ゃ今そういう関係なの。」
「あー。」

まるで今その事を思い出したかのような間延びした声には、まるで今悪巧みを思いついたような明るさも含まれていた。

「…。
 あーじゃねぇよ。俺ぁ今剣も持ってねーからよ。いのち―」
「ねぇのか?アッハハ
 白夜叉も落ちたもんだな。」

わかってねぇな…と銀時は、斜め後ろに仰のいた高杉に横目を走らせる。
言葉を遮られた事よりも、自分の本意も理解せずカラカラ笑う高杉に、ペースを崩され緊張が抜けていく。
神経を尖らせていた事自体馬鹿馬鹿しくなって、自分も肩の力を抜き、高杉の顔をちらりと覗き込んだ。

高杉は部類の酒好きであり酒呑みではあるが、だからといって下戸ではないようで、酒量が過ぎると稀に日が降ってきたように陽気になる。
それにはどうやら男女の種を超えた色香の噴霧も伴うらしく、霞を掛けられたようにあてられてしまう輩も少なくはない。
酒気のせいで口唇まで赤らめたこういった顔を過去にも何度か拝んだ事はある。

しかしこういう顔をしているからといって、それが全て良い兆候だと鵜呑みにさせてくれるわけではない。これはそういう奴だった。それこそ先程まで思いを巡らせていたあの頃から。

さて修羅か弁天か。

鬼や蛇の出現を危惧するこちらの懸念とは裏腹に、高杉の頬に注す淡い紅色は緩んだ目元を包んで、弓形の中の潤みを一層際立たせていた。

その瞳に思わず、唾を飲みかける。

本人も本人で、銀時が自分の肌に首筋に手を伸ばしてきた例なんてまるで今までに一度も無かったかのように無防備に、だらしなく肌蹴た襟元で首をかたむけ銀時を見上げる。

自覚をしているのかいないのか…。

だが今はもう昔とは違う。
度を越して離された袷の割れ目の中で上下する白い腹に食い付いてしまわないよう、襟のうちで散り散りに乱れた黒い襦袢と月影に縁取られる白い顎に視線を張り付かせないよう…
思考を別の次元に投げてしまうなど造作も無い事だ。
裏腹には、自分も年をとったもんだと思う。
そう昔とは何もかもが違う。

郷愁に遠のきかけた意識を、高杉の一言が止めた。

「斬ってみるか?」

言うと同じ軽い手つきで高杉は、腰に差した黒塗りの柄の頭を銀時に向け、そのまま20cmばかり刀身を抜いて伸ばして見せた。
柄を差し出すように握った拳は着物の中から伸びていて、抜き身の腕にいやというほど引っぱられ浮かされた黒い襟は腹に真っ直ぐな斜めの影を落としていて、筋の割れ目に濃密な影を落とす。

「刀ならあるぜぇ?」

鍔の無い刀の刀身は、黒からぬめりと照りまた黒に吸い込まれ、それを持つ者の瞳も黒く、刃のような光がそれもぬらりと射していた。
血がざわざわと静かな騒ぎを上げはじめる。纏まりの無い方々の主張。残滓の膨張。凶事の反芻。情の逆行。



時間は凍りついたかのように銀時の毛穴を湿らせていく。



「はんっ…なんだよその小芝居は…。」
「芝居?」
「お前、ちょっと酔い醒ませ。」

「あっはは!醒ましてくれよぉ、銀時ィ…白夜叉さんよぉ…
 酒よりもっと熱いもんでよぉ〜」

手放された柄は黒い鞘に落ち、高杉の伽羅伽羅と賑しく響く声にも絡めとられず、ちんと音を鳴らし銀を閉ざす。
柄を離し、そのまま草に落ちた掌は、つまりは右半身の露出を意味した。

意図せず諂曲だとか、道化役の大物役者だとか…相手の態度の内にある小難しい関係性を考えるよりも先に本能と腕が伸びる。



「ん…」

つい今までの人を小馬鹿にしたような笑声が甘い声に変わったのと、自分の指が酒に巡られ桃に染まった乳頭に触れたのに気付いたのと、銀時の中でそれはほぼ同時だった。

すぐに乳首は硬くなり、銀時の目も指も口唇もいつの間にか肌ばかりを追っていた。視線の向きをもう一度瞳に戻すと、さっきより潤んだ瞼を細め、高杉は先程までの自分のように月を見ていた。
覆い被さってしまおうと顔を近づける。月の光を遮られても真っ青な夜の闇を吸って乱反射する蓄光体のような瞳は、銀時の屠ったはずの劣情を刺激する。手遅れと成り果てた警告が眉間に皺を刻み氾濫を拒む。

虚しいサイレンの音のような頭痛。僅かな痛み。

掻き消すように高杉の耳元で囁く。

「上乗れよ。」



イカレたニンフォマニア。高杉のひとつ。
誰もが色んな顔を持っていると言うが、こいつの場合は一面一面ごとに主張が激しい。
酔いが覚めたらまたこいつはあの狂った飢餓鬼に戻るのだろう。
自らの性分を押さえつける事も出来ず、その必要性をすら未だ知ろうとせず排す。
高杉の肩越しに夜の空を見上げ、そう、思う。
せめてそれまでに自分がこの場から消えていられるよう強く…高杉を抱いた。

疲れさせ眠らせてしまえば、俺の勝ちだ。

急いた息の合間に時折混ざる低く掠れた哀切の声は、時折内側の震えを逃がすように大きくなる。



今夜ここでは出会わなかった。






月の中で松陽が言った。
―「相変わらず屁理屈だけは達者なようだね。

(うっせぇよ!)


―「お前達を見ていると退屈しない。


淫らに狂う高杉の下で、自らも熱い息を吐く。
草むらに背をつけた銀時にだけ見える、高杉の髪を透かす月は。

まるで微笑んでいるように控えめで。
流れる雲をも穏やかに照らしていた。