-コールドダウン-



真選組で一番死に近いのは実は、本隊より先行し単独で密偵を行う、山崎達監察である。

潜入先で囲まれれば道は無い。
地と空に深く刺さる鉄の円柱。穴を開けてくれる仲間は居ない。

真選組の一頭として多少は腕に覚えもあるが、想定されうる最悪の状況は多勢であって無勢。そして想定されうる最悪の状況を常に下地に持って行動するのは、最早日々によって叩き込まれた尖兵としての大原則になっている。


自分は元来好奇心の強過ぎる性質なのか。いや、それでも並の人間よりは分別のつくつもりではあった。
昔、まだこの特別警察に入ったばかりの頃。密偵業も駆け出しの頃、役目を終え下がらせられそうになって
「大丈夫です。まだいけます。」
なんて口を利いて先輩隊士達にどやされた事が何度かある。
その度、こっちは調べた上で俺でも加勢出来そうだと判断してなのにと、拗ねるような気持ちになった。
一番俺を怒鳴ったのが土方さんだ。怒鳴ったというか我鳴り立てられたというか…とにかく毎度毎度きついのは目付きだけじゃなかったし、青年よりも少年に近かった俺は、よく本気で竦み上がっていた。
今も怖いのは変わらないけど、「体使う前に脳で気力酷使しちまってる奴が何の役に立てると思ってんだ?んなあめーもんなら剣術なんかいらねーんだよ。一端の刀使い気取るには百年早い。思いあがりで更に百年だ。」なんていうようなくどい説教はもう受けていない。
上手く仕事が出来るようになった。まだまだだけど、それでも随分。引き際は知ったし、何よりも大事な任務は皆の足を引っ張らない事だと心得た。ああみえて真選組は懐が広く、それもこれも大将の性分なんだろうけど、少々の失敗は受け入れてくれる。だからこそ、自ずと足を引っ張るような真似だけはするなと、その戒律を礎に行動出来るようになった。

ただ死なないような用心を完璧にこなせる自信は無い。

その際、斬り捨てられプツリという音をたてて命の糸が切れるのならば、まだいい。最上級に良い部類だろう。
任務の鍵を握る密偵は敵方にとっても良い情報源だ。押さえられ捕らえられたスパイは拷問の中で命と喉を削られるのが定石と、きっと遠い昔から決まっている。
その時、自分の生命を繋ぐ錦の糸が立てる音は、鏡を爪で掻いたようなきっとすごく不快な音なのだろう。


そう、卸金のような…。と、密偵としての日々をいくつか経験した後、山崎は考えた事があった。
その後不意に日常の日の下にあわたってくる事があったとしても、―実際それは何度も繰り返し波打つように脳裏に巻き返されてきたが。―想像するのはとうにやめにした。
諦めたからではなく恐ろしいからで、未だ聞いた事も無い聞こえてくるはずもないその音に、我知らず両手を上げて耳を塞いでしまいたくなるからだ。
避けられない、仕方の無い死は、職業柄人より近くに在って、だが密偵の死は物事の分かれ目として充分機能する。なので土方はあんなに強く自分を叱ったのだろう。山崎は体も小さいし表立って剣振るうタイプではない、ならば、密偵として、一流の諜報員として、此処に居ろと。
土方は自分も他人も厳しく叱った。山崎は土方の助勤という立場もあり、土方の傍に居る機会や時間は他の隊士達より多いが、土方は己を叱る姿をおいそれと他人に見せる男ではなかった。やはり土方の思った通り、諜報に向いていたのだろう。


死ねない。自分を何度も死の手から遠ざけてくれた土方さんも言っている事だし。まだ死ねない。

今では、どんな事でもたいがいはソツなくこなせるようになった。おかげでたまに息を抜いて、副長に制裁を喰らう事はあるが、「そんな名前は今すぐ捨ててきやがれ」と言われる事も無くなった。生来俺は冷静な人間でもあるようで、それを効率良く表に引き出してくれたのもあの人かもしれない。あの人は喚きだすと手がつけられない酔っ払いみたいになる。
ボイスチェンジャーとモザイク。必要ですか?男ヒステリーめと心の中で毒づく事はあるが、まだ口にした事は無い。そう思うとそれも可愛くて、なぜかニヤけてくる。運の悪い日はまた殴られるのだけど…。良く言えば狼みたいで可愛らしいじゃないか。気分が良い日だけそう思う。ちょっと気持ち悪いけど。



侍の国の頭目であった幕府が挫かれ、侍の国の人間だった男達が刀を捨てざるを得なくなって、まだそう久しくはない。
唐突に変わりすぎた世の様は万般において動乱を招いたが、最もその煽りを強く受けたのは、やはり剣を持って生きてきた者達だろう。所謂士という位や腕を持つ者。一昔前ならば剣客と呼ばれ巷で名を響かせていた剣士も、浪人といううらぶれた席に身を落とし、一握りを別として今では立派なゴロツキだ。
―それに目を付ける人間も居る。
―その力だけを道具として欲する者も居る。
―そして官僚でもない輩が用心棒という名目で刀を振るう。
それ自体は昔からあった商売だが、時代が変わった今となっては、真剣を以てその勤めに励む、その事が違法にあたる。
だが、金を持っている人間と使い場の無い力を持った人間の間で成り立つそういったきな臭い契約は、今の時代まだ必要悪なのかもしれない。
自分がそれらを取り締まるべき側に身を置いているのは充分に理解しながらも、山崎とて思わない事はなかった。

攘夷派の駆逐が活動の主である真選組には少し管轄の違う問題だが、一般の犯罪行為の情報は入ってこないわけではない。
こういった血漿固まる話の裏側には、未だ攘夷を掲げる者が絡んでいる事が少なくはない。寧ろこれら情報にも目を光らせて、怪しい気配を嗅ぎ取るのも山崎の仕事のうちである。ただ、強硬派を自負する者はだいたいが、決まり事のように攘夷を謳う。その大方が単に騙ってみせているだけの、箸にも棒にも掛からないような半端者だ。奴等にとっての攘夷など安い空念仏だ。蓋を開けてみるまでもない。
だが、とくにここのところ、えらく腕の立つ居合いの使い手が、その業界に名を昇らせているらしいという話がよく耳に届く。


盲目の、居合いの、達人。そういえば。そんな辻斬りが横行していた時分があったはず。そう遠くはない。


その辻斬りとその人斬り。二つが同じ線上にあるのは何も違和感のある事ではない。行き場の無い荒くれが収まりどころを見つけたというだけで、それは先刻も述べた通り非常によくある話なのだ。
なのだが。その男の噂が立ち始めた当初から、山崎は何故かこれに妙な匂いを感じていた。
自分の諜報員、古い言い方をするならば隠密としての、鼻には絶対に近い自信がある。これまでの実績がそれを自分に裏付けている。


しかし。なんだろう。この今までに嗅ぎ付けてきたのとは明らかに異質な、重い香気の成分は。





盛夏は過ぎ、後はゆっくりと下る暑さの中で秋を待つ。
残暑見舞いは毎日のように、見回る街の先々から、目に耳に舞い込んでくる。

かぶき町で祭りの花火が空に上る。その音を伝えるこの街の空気からももうすでに、二週ほど前までの熱気は消えていた。とはいえまだまだのぼせる事に変わりはないが、さらなる気温の上昇を憂わせられるのと比べれば、本当にましになったものである。
この残暑の祭りは、この街で毎年行われる町内行事だが、そういうにはあまりにも町の持つ規格が大き過ぎて、乱発される花火の音を聞き、祭りに訪れる人の多さ人種の多様さを見、とてもだが町内会レベルの催事という印象は受けられない。


「相変わらず派手だなぁ」


やる事なす事。この街も人間も。江戸から半ば独立したかのような、独特の空気を持つ。
ここを歩く時は山崎も自然と何処か浮かれてしまう。そしてまた何処かで自然と気を引き締め直すのが習慣となっている。
ここはこういった街だから、テロリストや不逞浪人達のかっこうの隠れ蓑だ。下手したら奴らよりも個性の強い住人。よく気を引き締めておかないと、いざという時どちらに襲われたのかわからないなんて事もあるかもしれない。と、危険を笑い話のように、また可笑しな想像をして気を緩ませてしまっている。浮き足立っているにもほどがあると自分を戒めるのだが、しばらくは前述のように脱線しての繰り返しになる。
とかく山崎はここにくると、いつもより何割増しかで表情が豊かになる。



ここの中央に位置するその象徴とも言える大きなビル郡の一つに橋田屋の屋敷はあり、まだ蝉の声も煩わしいまでにうるさく、猛暑も隆盛の気配を含み、太陽が猛威を揮っていたそう遠くもない真夏日。大きな騒ぎがあったらしい。ビルの上部が大破したとか…。
警察が介入するような沙汰にはなっておらず、その力や地盤でお家内騒動だと内々に片付けてしまったようで、調書も残っていない。だが、近隣住民の口まではどうにも出来なかったようだ。
橋田屋さんのところで…先だって亡くなった息子さんの…にしてはおかしい…と皆口々に言う。
これだけ高いビルだ。家の影が掛かる範囲のご近所さんだけでも、把握しきれないほどの数だろう。
そして噂好きの人の口にやたらの回数繰り返して上る、資産が、浪人が、の言葉の陰に隠れるように、居合、という文字が聞こえた。
攘夷派、という言葉も。少し訳知り顔の連中に当たれば耳につく。だがこれが石か、それとも稀な非金属鉱物なのか、まだ判別は致し兼ねる。


もう探っても何も出ないだろうか。
潜入するにも時既に遅し。前から件の存在は気になっていたというのに、まんまと溶け込まれていたなんて、全く俺の手落ちだ。
木を隠すには森の中というが、不逞浪士達に混じる不穏分子を洗い出すのが俺の役目だ。

手がかりは以前のまま。盲目の居合の達人。
ただ今回の捜査で同線上の二つの人斬りに、同じ、岡田似蔵という名がついた。


花火が打ちあがる半刻ほど前に山崎は、橋田屋に係ったと思われる浪士数名の酒盛りに居合わせる事が出来た。
思ったほどの報酬が出なかったのか、それともそんな物はとうに食いつぶしてしまったのか、かぶき町でも場末に位置する安酒屋で呑んだくれていた。
これに辿り着いたのは半ば山崎の調査の賜物で、半ば運。
岡田という男はなかなか尻尾を掴ませないと思えばこんなところに名を残したり、今一つ掴み所に欠ける人物である。山崎はそんな印象を抱いた。


名など渡ったところで意味が無いと考える、相当の実力者なのかもしれないが。
奴等の持つ岡田の情報自体、そこで尻切れ蜻蛉だったわけだし、やはり重要なのは名前なんかではない。
だが少し頭の中に掛かっていた靄のような物が晴れた。晴天とはいかずとも、随分薄くなったように思う。
でも、それと同時にあの匂いが。より色濃く、靄が晴れた隙間に漂ってきたような気がする。この種の匂いの事をなんというか知っているはずなのに、呼び方を思い出せない。
鼻で嗅いでいるのではないのだから、当然と言えば当然なのかもしれないけれど…。


今日のところはもう引き上げよう。土産一つ無いわけではない。この名自体には意味は無くとも、何処かに潜む大物を浮かび上がらせる可能性のある物かもしれない。岡田一人分の悪意にしては、引っ掛かりどころが多すぎる。何一つ根拠は無い。第六感という物があるならばそれである。つまり山崎の思い込みの域を出ない物だが、一応報告はしておくべきと判断を下す。
ただ、土産がこれ一つというのも忍びない。自分のプライドに対して。とはいえ、これ以上は無駄だというのも、疲れた足腰が半ば嘆くように報せている。夏だというのにもう空も薄暗く、それに反してかぶき町のネオンはぼんやりと低空を照らす。これから地上に煌々と輝くであろう、まだ淡い光に吸い付けられるように今一度、街の中央部へと歩を進める。


せっかくだし、もう一つ土産に夜店の食い物でも買って帰ろうかな。
あ、給料日前だった。的屋料金とまではいかないだろうが、店を出しているのもあのかぶき町の住人だ。今の俺の財布では追いつかないだろう。
副長に何を買って帰ってもどうせマヨネーズにしちまうし、マヨネーズ買い与えた方が早い。
甘い物なら食後の菓子として少量ずつでもおかしくはないだろうから、ベビーカステラの大袋でも買って…。自分もよくよく気付けばかなりの空腹だし、一口づつ摘みながら帰ろう。


祭りの場のすぐ脇まで来てみると、道行く人々は皆一様に浴衣に身を包み、装飾品に工夫を凝らす若い娘などはとても可愛らしい。
比べれば本当に地味だが、町人の姿に身をやつす、今日の仕事は幸いだったと思う。この場にあの暑苦しい隊服で入るのは変に気が引ける。
金魚すくい、冷やしバナナ、的中て等多種多様なのぼりが立ち並んでいる。
人や出店のとりどりの色。屋台の並ぶ道に入るとさらに様々な音までが耳に飛び込んできた。

卵と蜂蜜の焼ける良い匂いの店を見つけ、目的通り大きな袋を買い込む。
ふと時計を見るとまだ八時を過ぎたところ。周囲もやっと暗がりに入り夜らしくなり、各店のライトアップが一層華々しく沿道を照らしつける。
少しくらい中をぶらついてから帰っても平気だろう。
現金な物でさっきまで疲弊を訴えていた足腰は、馬鹿囃子に乗せられて英気を取り戻している。
お好み焼きや焼きそば、いかの姿焼き、果ては外来の麺類。腹は一層鳴るが飯は屯所で済ませたい。袋から一つ、まだ熱い小さなかたまりを取り出し頬張る。

しばらく歩くと、低木の繁る小高い丘があり、その上に大きな鳥居と神社がある。
出店の並ぶ道の中ほどに位置する社。ここが本来ならば斎場となる場所であろうに、そこはさすが町内会主催の祭り。ただの肝試し会場になっているようだ。
上から何やら怒声のような物が降ってくる。何故怒声?化け物の類にも肝を冷やすかたちでの納涼にも全く興味は無いが、更に近付いて足を止める事になった。

鳥居に続く石段の下方に、この色と人の洪水の中でさえ異彩を放つ者が在る。

着物は赤を主体とした京ちりめんの派手な柄物。
ところどころ無造作に跳ねてはいるが、基本真っ直ぐに落ちている黒い髪の下には左目を覆う包帯。
素地のままの瓢箪。
これら散り散りを一つの身に纏う人物が、上体を仰け反らせ、続く段にもたれるように腰を落としている。
投げ出された脚の先には、足に慣れたような藁の草履。鼻緒だけが黒く艶々としている。よく見れば深い深い緑だ。

手に持った林檎の飴をしたるしく舐め上げる。
子供のような動作なのに何処か大人びた…そう感じてすぐに、当たり前だと思い直す。


当然じゃないか。どう見ても大人だ。
身の丈も自分と同じくらいだし、年の頃も自分とそう変わらないくらいだろうか。自分より下という事は無さそうに見える。
しかし何という不品行な様相だ。ふしだらという言葉がここまで第一印象に強く浮かび上がる人間はそうは居ない。
同じような人間は居るには居る…。あの締りの無い万事屋の旦那だが、それともまた違う。
もっと濁っているのにもっと研げ澄んでいる。
着物を花に蝶が舞う愛くるしい東山で贅沢に仕立てているかと思えば、粗末な草履に無頓着な頭髪、不気味な包帯。そもそも着物はどう見ても女物だし。
訳がわからない。
周囲のライトが浮かび上がらせるせいか、白い餅のように見える肌に赤と黒。御伽噺に聞いた事のある色合だが、実際を見るとなんて毒々しいんだ。


知らずの内に山崎は、その人物を観察していた。観察していたというよりは、目が離せなくなっていた。
強くその場に存在を示すのに、強すぎる故か、幻でもおかしくないといった錯覚を起こさせる。瞬きの後に綺麗さっぱり消えていてもおかしくない。身なりだけではなく、濃すぎる存在の濃度もが周りとちぐはぐなのだ。寧ろそんな事が起こらなければおかしいとすら思える。これも目が離せない理由の一つだと思われる。


腰の瓢箪を取り、中の液体を煽る。頬に僅かばかり赤味が差しているところを見ると酒だろう。
飴に酒?初めて見る取り合わせだ。と言うより、さっぱり思いつかなかった。想像すると気持ち悪いからだ。
やっている本人は、気持ち悪くないのだろうか?
そんなに近付いてはいないのに、ここまで飴の匂いが漂ってくる。辺りに飴屋があるのだろうか?いや、無い。見回してもりんごと書かれたのぼりは目をこらしてやっと何本か見えるだけ。
なら、この匂いは気のせいだろうか?

また林檎飴を。丸みを下から掬い上げるように舐める。
着色料で染まった赤い舌が、なんだかとてもいやらしい。勝手に見ているこっちが気まずくなるほどに。
そういえば、もう何年も食っていないが、林檎飴の匂いというのはどんなだっただろう…。


立ち止まったのはさっきだが、随分と長く見てしまっているような気がする。
もういくらなんでもおかしいだろう。何故か不似合いにも遠慮のような気が働く。山崎は目を逸らそうと、頭ごと視線を流して、向こうの腰に黒い細身の刀を差している事に気付き、眼球のみを元の位置に戻した。
廃刀令のこの御時世に刀を差しているなんて限られた職の者のみだ。帯刀が正当に認められるような人間にはとても見えない。


不逞浪士?いや、たしかにそのへんのゴロツキよりもゴロツキらしい格好をしているけど、そういった奴らとは風格が違う。
なんにせよ指名手配の掛かっている者ではないだろうか?


頭の中で手配書の束を捲る。職業柄、立場上、ほぼ全てを叩き込んでいる。ちがうちがうちがう…。
姿かたちはどれもピンと来ない。
そこで山崎は各手配書の人物に綽名される性質の一つ一つを思い返してみた。
思い当たる名前が一つ。


……高杉?

手配書にあった、攘夷戦争時の写真をよく思い出す。
風体も雰囲気も随分と違う。
赤い着物に赤い舌、膜を張るような唾液のつやも相まって、腰に差している鍔無しの黒い物までなまめいて見える。
何よりも目付きが…。同じく同時代の写真が手配書に使われている桂が(何故奴が未だにあの写真なのかは本当に謎なのだが…)目の光を何も変えていないのに比べ、これが高杉だとすれば…僅かばかりに陰りのような物が見受けられるし、それがやたらと目について、異種な物に感じられる。
だが…そうだ。どんなに様変わりしたと言っても鼻や口唇のかたちはそうそう変わらない。そういった人間も何人か見てきたが整形しているようにも見えない。

―おそらく、間違い無い。高杉だ。


そう判を下した、相手の顔がこちらを向く。
気付かれたか?山崎は咄嗟に心中を硬くするが、だが今の自分は町人の姿で…なんら警戒する事は無いはずだ。あれだけ派手な格好をしているんだ。見られる事ぐらいよくあるだろう。
そう開き直ってみると、高杉の大胆不敵さがいやがおうにも浮かび上がる。自分の判断に一切誤りが無く、本当にあれが高杉ならば、桂と並ぶ大物であり、最も危険視されている人物だ。
自覚が無いのか?何に対して?自分がどれだけ目立つ格好をしているか。自分がどれだけ緊急性を持つ人間か。どちらにしても常軌を逸しているとしか思えない。桂もそうだが、敵ながら見事なまでの器だ。というのはあくまでも、山崎なりの皮肉だが。

幸いこちらを向いた顔の主は、殺気はおろか、なんの敵意もこちらには向けていない。注意自体向けてもいないように見える。
一応山崎もわざとらしく、盗み見を気付かれて見咎められるのを恐れるような、そんな素振りを何気なく演じて見せた。だがやはりそれさえも、全く気にも留めていない様子だ。
ただ確実にこちらには顔を向けている。
一度通り過ぎた方がいいだろうか。視界の上方になんとか向こうの姿を留めていられる程度に目を逸らして、判断を急ぐ。
だが、何が邪魔するのかいつもは上手く回るはずの機転が、どうにも鈍っている。

高杉の口が大きく開く。何か言うのだろうか?見通しの悪い中、口に注意を向ける。が、開いたまま静止して、言葉を模る気配は無い。
長い時間ではなかった。まだ実際にはほんの二、三秒。なのに山崎はひり付くようにじりじりする。

心を落ち着かせようと、もう一度高杉の手配書を隅から隅までよく思い出そうと試みるが、さっきまで出来ていた事が今度はうまくいかない。赤い舌と白い歯とそれを取り囲む口唇が、山崎の網膜の奥に纏わり、ちら付く。
万に一つ間違いだったとしても、こいつから目を離してはいけない。誑かされた眼球の奥から、山崎の勘が山崎に強く訴えかける。

そうして山崎が警告と煩悶に苛まれている中、永久にも思える静止の後。
高杉は大きく開いた口で、飴の上部の一辺をおそらく大きな音を立てて噛み砕いた。
斬首のように突然振り下ろされた歯の刃に、山崎はすくりと身を張らせ、思わず顔を上げてしまった。

また少し間を置いて高杉は閉じた口に咀嚼の動きをとらせ始める。口内の物を噛み砕く顔は何かひどく満悦げで、山崎は目線を外す事も忘れ立ち尽くす。
聞こえはしないがガリガリと、磨り潰される飴の音が肩を引っ張り上げるように耳の裏で鳴り響く。

高杉は石段の脇の茂みに残った飴を放り捨てた。
そしてゆっくりと立ち上がり、自分の居るのと逆方向にゆらゆらと歩き出した。


…追わなければ!

副長か、誰かに、とにかく誰かに連絡を入れた方がいいだろう。だが電話口の声を聞かれ、少しでも怪しまれると自分の身がやばい。せっかく見つけたのに元も子も無いじゃないか。
それにぐずぐずしていると見失ってしまう。隙を見て掛ければ良い。


独断のみの行動の方が危険という冷静な判断が、何故か山崎の頭から抜け落ちていた。
普段ならば隠密行動中、少々の無茶をする事はあっても、それは失敗の可能性が限り無くゼロに近いという合点がいってこそ。
山崎はこれでも諜報員としては敏腕で、その才能の最たる要素は冷静さだ。



あとをつけしばらく、高杉の歩みは変わらずのそりと、背につく鼠を払おうとする気配も無いまま、辻の一角となった出店の脇を折れ、舗装されていない社周りの木々の道に入った。変装していてもしていなくても、自分の尾行技術にぬかりなどあるわけは無かったが、高杉は気付いている。山崎もその事に気付いている。おかしな話だが、確信がある。
そして更におかしな事に、捕らえ付かんとばかりに歩を進める内に、逆に何かに捕り憑かれてしまったのか。さっきまでの“気付かれたら自分もやばい。”という考えは、いつの間にか山崎の心算から、抜け落ちてしまっていた。


社の東側。少し離れているので頭上に玉垣が見える。未舗装で木が並ぶとは言え、人の気配は充分にある。干菓子屋や骨董屋など店もまだ広がっている。人の多さもあるんだから、道が開けたわりに木の障害が増えた分、進む方向の選択肢も増えた今こそ姿を眩ませ易いだろうに。面白がっているつもりか?
それならば…どこまでもあとを追って、根城を突き止めてやる。


随分小馬鹿にされたもんだと山崎は鼻息を荒くしていた。

だが、それがやがて、逃げるならまだ今の内だ。今ならまだ…。と、山崎のよく働く勘が離脱を強く推し薦め、心を掻き鳴らし始めた。

それに反し周りに茂る木は減り、人の熱れも下り始め、舞台は斬り合うには格好の場所へと移り変わっていく。鳴り響く警鐘は一歩踏みしめるごとに、サイレンのように赤く大きくなる。
自分は刀を持っていない。懐には護身用の小刀一本だ。
なのに高杉と同じ土の道を踏む事に逆らおうとすればするほど、鉛のように重くなった足はその重さに逆らう。前方の対象より引力でも発生するのか。山崎の一歩一歩は、まるで怪我人のリハビリの如くで、苦痛を引き摺るように遅い。だが距離は変わらない。その事が空恐ろしくて、遠ざかってくれる事を、せめてこれ以上距離の縮まない事を、願わくば自分の足が踵を返し走り出してくれる事を、本能は望む。だが、まったく叶わない。


なんだろうこれは。怖い?違う…。
でも…
駄目だ。この圧力。威圧感。圧し潰されてしまう…!


山崎がそう感じたとほぼ同時に、高杉は歩を留め立ち止まり、緩徐と振り返った。

「死ぬに躊躇うか?」

何倍もの重力から解き放たれたように、山崎の体はピクリと跳ねる。気取られはしまいかと気に掛ける隙も無く、高杉の喉を鳴らすような笑い声にまた、身が縮む。
癪な事に高杉の一声によって、先程までの重圧感からは解放され、取り乱してしまうような事態は避けられた。


なんだこの感覚は…。自分と同じ人間で、凶悪な奴や狡猾な奴はいくらでも見てきた。
だがいつだって対処する余裕だけは持っていて、上手く立ち回っていたというのに…逃げられない。
この場所からも、この空気からも。
だが、悟られてはいけない。


山崎が身を固めなおした途端に、また転がるような笑みを交え、高杉は言を吐いた。

「…ああァ…護る?か?」

高杉は、自分の一言に山崎の目の色がほんの少し青みを帯びたのを見てとって、こう続けた。

「侍気取りたきゃあ生まれ直してこい。その甘い根性十萬億土の彼方に捨ててこい。
 なんならぁ…お手伝いしてやってもいいんだぜェ?チャンバラ坊主。」


思いも寄らぬ場所で思いも寄らず目にした人物は、意外なまでによく舌を滑らせた。
酒のせいだろうか。多少掠れているというのに、音吐の中央にある線は非常に甘ったるく、耳の奥に絡まるに留まらず、伸びる語尾は全身を舐めるように這い回る。
あの林檎飴のように優しく…。だが、肌につく前からどす黒く真っ赤な舌は、咎人の肉を纏って濡れたしもとだ。
なんという器用な声を持った男だろう。
そして規定値を遥かに上回った、計測不能の非安全性。距離感の無さ。

言葉の意味を解し、動こうと思ってもどうにも手足が動かない。
眼の中の高杉はあんなに悠々と瓢箪を傾けているというのに。
情けない事に自分は小刀をとる事も、地を踏み蹴る事も、先刻買って小脇に抱えたままのベビーカステラの袋を落とす事さえ出来ないでいる。たじろぐ事すら出来なかったのが唯一の救いだろうか。後から付けてもみっともない話だ。

喉が動く。あそこの奥はあの赤い舌と続いているのだ。
口唇が瓢箪の口を離す前に、指が栓を離した。取り落とされた栓は土の上を転がり、固まってしまった自分の視界の外に出た。

緩やかに顎が降りる。こちらを見る目を細める。
穏やかに笑んだ男の顔付きは、何の切欠も無く一変して血に笑いそうな、狂気を持っていた。
今度は喉も鳴らさず、言葉もあの声も出さない。
転がった栓の行方など気にも留めない。

これまで、最前線とはまた別の場所で何度も死線を潜り抜けてきた。
この男は死臭がする。死の甘い匂い。こんな匂いがするのは、この男が死と甘い物とを大差無く捉えているからだ。そうに違いない…。

「おっと、お互い命は大事にしねぇとなァ。
 人生は一度っきり、生きても生きても一度っきりだぜぇ?」

ケラケラケラ。
さっき放ってしまった蓋を探す事もせず、ケラケラケラケラ。
ざるのように喉に流す。
くらくらする。

「逢いたい御方に、会いに行けぇ…ククク…」

くらくらする。

ケラケラケラ。

甘い。なんて甘さだ。
甘い匂いがする人間といえば…食後の旦那?それを嗅いだ事は無いが、おそらく違う。頭を割りそうな甘さ。
実際にはこの男からは酒気しか漂ってこないというのに。酒なんてものは、この男に混ざった不純物の匂いだ。

甘い。この甘い匂いを何処かで嗅いだ事がある。何処でだろう…元嗅いだ物から、煮詰まりすぎてわからない。
最近…いや、もっと前から…。
そうだ…!




気がつくとあの嫌な笑い声は聞こえなくなっていたが、歩いていったと思われる先、向こうまで、奴の匂いがそこかしこと点在し、空中を浮遊していた。
『それ』は、しゃんしゃんと鈴入り草履のような音を立てそうで、気が逸る。けど『それ』はすぐに、よく聞こうと耳をすます度に、空気に吸われるようにして消えていく。

寒気がする。
今、自分は…。追おうとしていた。追跡者ではなく。追従者として…。


くらめく脳裏に、口唇の端をニヤリと吊り上げた顔を最後に残し、高杉の姿は闇に紛れた。先程までとは逆の方向から引力が働いたのか、山崎の足は地についたまま、その位置より先動かなかった。
ほんのちらりと見ただけなのにその顔が、背筋が凍るような思いと共にいつまでも目に残り、同時に高杉が自分と同じように死に近い人間である事を感じた。だが自分とは違って高杉には任務など無い。わざわざ命を晒さねばならぬ道理も無いはずで…。


自発的に命を盾にせねばならないような運命を背負った人間というのは、本当にこの世に居るのだろうか。
いつ命が果ててもおかしくない、真選組という組織に居てさえそう思う。


そして自分との決定的な違いは、高杉が必然という物を全く意識していない事からきているのではないかと思惟た。
すぐ隣にある死を恐れるでも楽しむでもなく。当然と捉えているのとも違う。その事に対しまるで何も感じていないかのように見えた。
初見のくせに随分勝手に掘り下げた印象だとは思う。だが、


あの生身の男は知っているのだろうか?道具にある盾の存在と、その用法を。


笑い声を思い出す。蜃気楼のように歪められた臨死感がまたぞくりと背を走る。もうとうに見失ったはずの高杉の目が、まだ四方八方から自分を見ているような気がし、山崎は肩をすくめ、両の二の腕を強く握り締めた。

「副長…」

どうしてそう呟いたのかは山崎自身にもよくわからなかった。
恐怖から心に在る者の名を思わず口ずさんでしまったのか、或いは、やがてこの男と対峙する事になるであろう彼の身を案じてか。
究明する間もなく呆然としてしまい、そして次の感情が訪う。


死ぬに躊躇うか?
死に対する恐怖を無に出来たわけではなくても、覚悟は出来ている。来たるべき時が来れば死ぬ。
だが冗談じゃない。そこへ出向く機会が人より少し多いだけで、自ら舌を食うような真似はする気は無い。


心は急な猛反発をする。


副長もたいがいに命知らずだが、考えは自分と同じはずだ。
だけど高杉には。自分達と等しい死の概念があるのかすらあやしい。
高杉の言は、自分の考えにある躊躇とは遣い場所が違う。
思わず俺は自死を発想として出したけど、それだって違うのだろう。
…。
護るとすればそれは自分であり仕事であり、それによって護る事の出来る人達であり、護れる日常の幸せであり…。



あらためて自分の死の近さが浮き彫りになった。
忘我でもあり、戦慄でもあった。






落さんの回裏捏造。密かに銀高でもあったり。