「おはよう。よく眠っていたね。」 聞きなれない、いや、聞いた事も無いような出し方で声を出す。 俺の顔となるべく同じ高さに近付こうとしているのか、屈めた体をさらに横に傾げ、俺の顔を覗きこんでくる。 誰だよこいつは。良い匂いがするにせよ何にせよ。知らない大人である事には変わりなかった。 二、三口をきかれたが、答える気にも頷く気にもなれなかった。頭もまだぼーっとする。それに今自分がわからない事の方が多すぎる。何がわからないのかもわからないから、こいつの言葉も耳に入らない。 伸びてきた手が頬を包む。 ひんやりとしているのにあたたかい。 「熱は下がったようだね。もう一眠りしなさい。それから話そう。」 そう言ったくせに奴は引っ込めた手より後ろに体を退ける事は無く。その場でにこやかに笑って、女が持ってきた盆を床に置き、柔らかい物腰で人を払う。 そいつの手や顎の動きを追って、自分が白い清潔な布団に挟まれている事に気付いた。 「…ここは?」 「ん?君達が門を潜ったお医者さんだよ。」 「なんで?」 「君も相当に傷だらけじゃないか。」 まだ聞きたい事はあるような気がするんだが、上手く頭が回らない。何を聞いていいのか、何から聞けばいいのか。やっぱりどうしてここに居るのか。 門の中でまた俺はかなり暴れたはずだ。なのにどうしてその家の人間が俺を家に入れてるのか。 あんたがお医者さん?そう聞こうと思ったけどやめにした。たしかに悪くなさそうな奴には見えるけど、まだ気を許すには早い。こいつのこの和やかな顔だって、嘘かもしれない。 「私はこの町の者ではないのだけどね、ここの医者とは旧知の仲で、挨拶に通りがかったんだよ。」 俺の質問を読んだみたいに奴が答える。 「聞けば君は身寄りが無いらしい。家も無いのだろう。そこで私が君を引き取る事にした。」 「裕福ではないが、寒さを凌ぐ暮らしなら約束出来る。私と一緒に来てくれるね?」 寒さ。という単語を受け入れるには俺の心はあまりにもささくれ立っていて、涙の入り口にちくちく突き刺さる。 流れ出しそうな物を流さないように、俺は寝返りを打って顔を伏せ、奴ももう何も言わなかった。 静かに、俺が再度眠りにつくのを待ち―それはかなりの時間を要したと思うけど―、その間奴は湯呑みを上げ下げする微かな音だけを時折立て、ただ静かに俺の背後で、たぶん俺の肩を見つめていた。銀色の髪でも無く、やはり離さなかったのだろう手に持った、黒い鞘に納まった銀色の刀でもなく。静かに包むような視線に、ぎゅっと手の中の物を握り締めた。 起きると、新しい着物が用意されていた。 深い藍色という色の着物。よく似合うじゃないか、藍がとても映えるねって奴が言った。 布団や包帯と同じ色の白い寝巻きを見つめて、どうしてこいつはそんな事に言葉を使うのだろうと不思議に思った。 まだどうしようか決めかねていた。どうなってもどうでもいい気もする。ただ姉ちゃんや他の奴らがどうなったのかが気掛かりだったけど、この隙が無いほど穏やかな雰囲気に流されて、どこで口を挟めばいいのかわからない。 言葉を出すのにも抵抗はある。 その影響でか、身には力が起こらず、袖を通す時に掌から刀を離されたのにも抗わず、吉田松陽と名乗った奴が俺の体に次々と布を巻いていくのに、じっと黙って任せていた。 俺の名前はみんなが…兄ちゃん達も、ギントキって呼んでたからギントキだ。それだけ教えてやったら松陽はまたあのなんとも言えない糸目になって口を結んだ。 そうこうしているうちに俺は町の子みたいな格好になっていて、松陽は荷物を背負って、医者の家の玄関を出た。 ここにどれくらい居たのかわからないけど、あの寝所に運ばれて以降初めて見た医者の顔。 それより前に見た喧々とした顔とは違って、諂うような笑いを松陽に向けている。 松陽は俺の方に視線を落とし、まさか医者も予想だにしなかっただろう唐突な事を言い出した。 「銀時、さあ、お世話になったお礼を。」 なんで俺がこんな奴に。 へこへこへりくだったような顔が俺の名を聞いた瞬間に険悪な色を出しやがる。 そんなもん俺に言われたって、こいつにとったら野良犬が外で鳴いてるのと同じなんだ。 「ほら、お前のその怪我を手当てしてくれたのは…」 まだ何かを続けようとするけど、俺はもう面倒になってありがとうございましたと声に出した。 すると医者の目が突拍子も無く豆鉄砲を食らったように丸くなった。負けるみたいで嫌だった事が、なんだか、してやったような良い気分になった。俺はどういうわけか、すっかり勝ち誇ったような気分になって、思わず松陽を見上げた。すると松陽もやっぱり、笑っていた。 そのまま促されるように門を出。土手の上の町は白や藍で出来ていた。 今まで土手を登っても、居心地の悪さに目を伏せて早足に通り過ぎるか、何かに追われて砂を巻き上げた視界の中を走っているばかりだったので、まともに壁や屋根の色を見るのは、これが初めてかもしれない。 奴らの遣いの時でさえまともに顔を上げて歩く事は出来なかった。突き刺さる目と声が痛い。悪い奴なんて一人も居なかったのに。 「あいつらは?」 「ん?お前のお友達かい?」 「?」 「みんなもね、新しい家族に引き取られていったよ。」 「家族?」 「そう。これから一緒に暮らす人だよ。」 家族という物は一緒に暮らす人の事を言うのだろうか。だったら俺達は家族だったんだろうか。お友達って言ったけどそれは家族とは違うんだろうか? 「姉ちゃんは?」 「君の?」 「俺らの。姉ちゃんも家族に行ったのか?」 松陽は頷くような頷かないような加減で少し首を傾け、腰を折ってニコリと笑い、面と向かった俺の頭に手を乗せた。 そしてゆっくり立ち上がり、俺の手を引いて、歩き出した。 「さぁ、隣町に宿をとってある。少し遠いけど男の子だ、歩けるね?」 松陽のニコリとした顔は、その時の俺にはまるで、姉ちゃんの『幸せ』を約束してくれてるみたいに見えて。 俺は涙が出そうになったけど、ゆるゆると歩く松陽の後ろで、目をごしごし擦りながらついていった。 風呂って物を知ってからわかった事がある。上に住んでる奴らの肌がせいぜい部分部分しか汚れてなかったのは、泥の中でも転がらない限り、一日や二日で全身が真っ黒になる事なんて無いからだ。水を使った後にちゃんと水分を拭き取れば、砂や土が付く事も無い。風呂に入れるようになってからも俺は泥まみれになって遊んだけど、一日で固まった泥とそれ以上の日数で上塗りを重ねた汚れじゃ、子供の目で見ても質感は全然違う。 風呂に初めて入った時は、冷たくも無いのに体が縮むような気がした。それは足を入れて全身を付けた最初のほんの短い時間の事なんだけど、この数秒に慣れずに長いこと風呂は苦手だった。熱い水があったって事に驚いた。真夏の太陽でぬるくなった川の水なんか比べ物にならない。風呂のすぐ後に初めて食べた味噌汁はそれよりもっと熱かったけど。 俺はしばらく後天的な猫舌が治らなかった。 もう一つずっと後になって気付いた事。 姉ちゃんの声は聞いた事はあっても、言葉は聞いた事が無かった。あの時の俺はおかしいと思わなかった。 姉ちゃんは喋れなかったんだと思う。それでも俺達は姉ちゃんの目や口元で姉ちゃんが言ってる事はわかったし、俺達も言葉なんてロクに知らなかったから、問題じゃなかった。会話なんて、あそこに来る前のを持ち寄った言葉にせいぜい毛が生えた程度、それで充分だった。いつも姉ちゃんは笑っていた。他の顔を見る機会はごく少なかった。思い出したくないような、そんな状況でしか、笑顔でない姉ちゃんは見れなかった。 流れる毎日をどんな風に過ごすか。姉ちゃんはきっと、笑って過ごす方法しか知らなかったんだ。 子供には鈍いようでいてなかなかするどいところがあるものだと、いつかじじぃ連中が言っていた。けど俺らはまんまと鈍かったんじゃないだろうか。だってあんなゴミの吹き溜まったような生活。苦しくて仕方なかったはず。なのに姉ちゃんは滅多な事では笑顔を絶やさなかった。見目のみを幸せを得る資格みたいに言うわけじゃないが、ガキの目にも姉ちゃんは光ってた。磨けばさらに眩い事は、他人を少しずつでもこの目で見るようになって確信出来た。今思い出しても…。姉ちゃんの朗らかな笑顔は、それを疑う事でさえ不浄な事のように感じてしまう。それとも姉ちゃんは人より多く幸せを持つ豊かな人間だったんだろうか。 何故今、唐突にこんな事を思い出したのだろう。 今よりもっと頭も悪いガキだったから、記憶はおぼろになって其処彼処抜け落ちてるところもある。 松陽があの時使った口先の矛盾も今になってやっと指摘出来るほどに気付いてきた。 あの医者と友人だと、なにもかもがまるで偶然のようなお膳立ても嘘だろう。でなければ、他の奴らにも用意されていたように引き取り手が現れるわけがない。俺らのようなガキがあの町で、あんな分厚い布団に潜り込める事は無かったはずだ。 問題の浮浪児の話を聞いて、有志の教育者数名が解決に取り組んだ。そんなところだろう。 そして姉ちゃんの…奴は結局答えなかったし、俺もあの門の中で繰り返し叫ばれた言葉を、繋げる事をずっと拒否してきた。 俺はあれから姉ちゃんの事を口に出す事はせず、自分の無い頭で辿り着ける場所を探した。 この先俺が更に世の中の事、色々な事の知識を吸収して、何が新たな事実として出てきたとしてもこれだけは変わらない。 ねえちゃんが死んで、俺らが生きて。それまで俺達の命を繋いでいてくれていたのは姉ちゃんだ。絶対に忘れはしない。 青白かった空の裾を自分と同じ色に変えて、もう何度も夕日は落ちて。 あれから、松陽は箸の持ち方や帯の綺麗な結び方や、聞いた事も使った事も無かった言葉や文字の読み方書き方を教えてくれた。他にも色々あったけど、帯を結ぶのは面倒でいつもは教えてもらった通りにしなかった。 そして連れ帰られた松陽んちは塾ってのをやっていて、俺はそこでヅラや晋と、他にも俺と同じ背格好のガキどもと出会った。 長い時間を通して見るうちになんとなく、松陽の教室の中は松陽が言っていた、あの、家族みたいに思えた。教室の奴らはもうすでに、同じ父親を持つ兄弟のように見える。 俺もそりが合ったり合わなかったりしたけど、でも拒絶しかわいてこないような奴は居なかったし。徐々に、徐々にだけど、新しい家族の中に自分が混ざっていこうとしてる事を感じた。 思想を持つ事。護る事。なぜそうあれと先人が教え諭すのか。松陽の言葉は俺にもわかりやすい。ありすぎて全部を思い出して挙げるのはとても無理なほどたくさんの事を教わった。 ← 前 |