何回もの昼夜が過ぎてまた寒くなりはじめた頃、姉ちゃんの腹が膨らんできた。 そして膨らみだす少し前から身体中に点々と赤い虫刺されみたいなのが出来始めた。痒くも痛くもないみただけど、どうやったら引くのかもわからない。姉ちゃんは気にしないでいいって顔して笑ってたけど、その笑顔の顔色もどんどん悪くなる。栄養が無いから治らないのか、どういうわけか姉ちゃんがこうなり初めてから、あの大人どもの顔は全く見なくなった。 見たら気分が悪くなる顔。今日はどうやって殴る気だ。そうやって悪態ついてたはずなのに、顔を見てない事に気付いてから思い起こした事だけど、そういえばもう何十日も殴られていない。いや、じゃなくて俺達に仕事をさせてない。奴らは十日に数回やってきて姉ちゃんに笑いかけ、姉ちゃんを連れどこかへ行く。姉ちゃんは綺麗だから悪党も改心するのだろうか。笑った顔も臭ってきそうな汚い物だったけど。 そうだそれから俺達は仕事も盗みもしてないのに食うに困らなくなっていた。姉ちゃんが、男と出かけた帰りに贅沢な物を買ってきてくれる。布団と言うものに初めて寝た。男に教えられた名前だ。据えた声でヘラヘラ顔を歪める。これは薄いらしいけどそれでも上等だ。飴や団子や、暑かった時など二回ほど雲みたいな菓子を買って来てくれた。つつじの花の何億倍も甘かった。姉ちゃんにそれを言うといつもの何倍も目をきらきらと細めかせて笑ってた。抱きしめてくれた乳は心無しか前より大きくなってた。 姉ちゃんの、腹が少し出てきて、見た目には乳はさらにでかくなったような気がしてきた頃、着物の奥からあの赤い虫刺されが出てきて、あまり近寄らせてくれなくなった。 あの時もあの時もすごく柔らかくてあったかかったから、俺は何度も姉ちゃんの傍に寄ろうとした。姉ちゃんは俺らが寄るのを手で静止して笑うけど、月を転がしたみたいな口元には力は無く、しんどそうだったから、チビを姉ちゃんの寝床の端から剥がしては俺もぐっと諦めた。 それからしばらくして姉ちゃんは水ん中に入った。 チビどもと川原を上って遊んで帰ってきた時には、冷たい空よりもっと冷たくなった川に腰まで浸かって座り込んでいて、慌てて走り寄ったら姉ちゃんの体から川に、赤い物が流れ出ていた。血だ。姉ちゃんの血が川に流されてゆく。それを見てみんな同じように息を止め、小さいのが喚き声を上げるまで時間も動かないままだった。川の音と一緒に流れ出した時間に跳ね飛ばされるように姉ちゃんの方へ駆けた。短い距離。だけど冷たい水が脇腹に絡まって、地を蹴るよりも早く走れない。 やっと辿り着いたかと思ったら、姉ちゃんの体は砂に刺した棒みたいに崩れて、俺の肩の上に落ちてきた。 俺の目を煽る顔には色が無い。いつの間にか高く昇った足の早い月を、映し返すだけの無気力な頬や鼻。体が僅かばかり、川の流れの動きにだけ忠実に揺れている。 「おい!姉ちゃんの布団の下にある袋持ってこい!」 誰でもいいから、すぐ走って持ってこい。なのにチビどもは何が起こっているの判らずにまごついて、でも危機を感知するのだけは一人前で、まだ何もわかっちゃあいないのに鼻水まで垂らして泣いている。 「おい!コウタ!」 一番橋の傍寄りの奴を名指ししてやる。一回ビクリと体をブルつかせてやっと、布団の元に走る。俺も姉ちゃんを肩に抱えて水の底の泥を引き摺りながら川原へ陸へ移動する。思うように進まないのは、もう泥を掴む足の指の感覚が無くなってきているのと、姉ちゃんの意思の無い体が足を上げた反動で滑り落ちてしまわないように、大きな動きを極力控えてる為だった。 やっと川を上がったかと思ったらチビどもが泥のようにすがりついてくる。袋をとりにやったコウタはその様子を見て怯えてる。 「お前、それ落とすんじゃねーぞ。お前等姉ちゃんの足持て。付いて来い。」 あいつらが置いてった金を取り分けておいた分がもうかなりの量になっているはずだ。いざという時の為だろう。昔掏ってきた銭入れで使いよさそうで吊り下げていた袋の中に、姉ちゃんが一枚一枚微々たる小銭を、最近ではそれの何倍もの銭をこの中に足していってた。 何の為かは姉ちゃんの口から聞いた事はなかったが、だいたいわかるから今まで手を掛けないようにしてきた。何かの時にと、そうやって重みを増していった物だったら、使い道は今を置いて他には無いはずだ。 この金全部持っていったら姉ちゃんの事を動けるようにしてくれるかもしれない。こんな白い肌で眠るのはどこかに行く奴だけだ。医者なら姉ちゃんの眠りを覚ましてくれるかもしれない。そういう奴らだって聞いたんだ。 子供らの中で一番力が強かった俺が姉ちゃんをおぶって、あとの奴らが姉ちゃんの体を支えて、俺らは医者の屋敷まで走った。この角は何度か曲がった事がある。門は遠い。姉ちゃんが背中でぐらぐらしてる。早くいかなければ。 門を潜ったところでデカい男に取り押さえられた。男の脛を蹴って走る。姉ちゃんを助けてくれ。 起き上がった男が何か叫んだ。 追いかけてくる怒声への怯えと、今までに経験した事の無い状況への恐怖で、ぱんぱんに膨れ上がる絶望感。震え上がって搾り出すチビどもの叫喚に削られて、掻き消される男の言葉。 あと何十歩。あの重い木の玄関まで。 両脇から出てきた数人の男達に取り押さえられ姉ちゃんを体から剥ぎ取られて足の下に開いた空間を蹴って掻いてするけど、どこにも届かない。 腕は脇から腕を差し込まれて肩をすぼめる格好になっているため、力が入らない。もどかしいぐらいに足も手も空回りする。 離せよ離せよ。何度も叫ぶ。手足が届かなくても声は伝うだろう。だが返事も無ければ反応も無い。これもやはり空回りのようだった。 もう無理だ―。頭のすぐ後ろで、俺を抱え上げてる奴の口から。声と認識出来る声がした。その言葉だけは耳に入ってしまった。 「離せーーーーー!」 捻って投げ出した足が上手く斜め前にいた奴の腰まで届いた。 俺の体を浮かせてる奴の腿にも届き、コツをつかんだ。そこからはもう何も覚えていない。 ずっと轟々と鳴り響いていたのが誰の声だったのか、何の音だったのか。 姉ちゃんの体には傷なんか無かった。あの赤い斑は青白い肌の上にもやっぱりまだあったけど、そこから血や肉など覗いてなかった。 俺達がどんなに打たれたって殴られたって、…何処かいってしまったあいつらだって。あんなに大量の血を流した事なんて無かった。 なのに連れて運んでる間にも姉ちゃんからはまだ血がしたたっていて…。俺は後ろを振り返る間なんてなかったけど、一番後ろについてるらしいコウタの、血が血がって声で止まっていない事はわかってた。 引き剥がされた姉ちゃんの体は下半分が血まみれで、血はあんなに熱そうな色をしているのに、そこさえもどんどん生きてる気配を失っていっていた。 早くしてくれ。そう叫んでいたのはなんとなく覚えている。 無理なわけが無いと。 だが姉ちゃんの体が医者の玄関を潜ったかどうか見届ける前に俺は右も左も白も黒もわからなくなって。 次に気がついたら、俺は大店の外から覗いた事があるような無いような、畳みを囲む壁の中に居て、ちくりと走った痛みの上には、白い布が貼り付けられていた。 壁の戸を開けて一歩入りかけた女が、足を戻して戸の下に続く木の道の向こうへ声を上げる。 白い砂を泥水で溶いたような髪の色の大人が後から入ってきた。 でも、他に例える色を知らないのが悪いような、そんな気にさせる。ぱっと見は姉ちゃんよりも静かな笑みを全身に持った、姉ちゃんみたいな優しそうな大人だった。 ← 前 次 → |