-コントラスト-



どこまで全速力で走っても筋肉に軋みも感じないのに、それのみ上昇する自分の心拍を全身で聞いて、これは夢の中だと知る。
近頃の俺の傍にある現実では、稀にも見ないほど密度の高い緊張感に占められたこれは、まどろみと表現するには語弊を拭いきれない。そう呼ぶには柔らかさも、それからくる気だるさも足りない。決定的に心地良さが無い。
火傷を負いそうなほど冷えた緊迫が、どくどくどくと沸騰した血液を心臓に流し込んでくる。温度差に脊髄が震える。久しく分泌されていなかったものが、滞っていた分を一気に取り戻すべく堰を切って溢れ出してきたような。大量流出。
夢ならば。いやこれは夢なのだし。目さえ開けばここから離れられる事はもう何度も経験済みだ。
この光景も、どうしていつもこんなに気付くのが遅くなるのか不思議なほど、反芻している。

早く醒めたい。
性質の悪い事に、あったままの光景を再生するだけのこの夢から。
この夢の中から逃げたいと思う罪悪感からも。
目を覚ましてすっきり遠ざかってしまいたい。

眼球に、きつく何度も力を入れるが、意地でも開けてやるとその力を加えれば加えるほど、白い羽織に白鉢巻の俺は、きつく目を閉じる。
瞼一枚隔てた先。現実への帰り道はもうすぐ其処にあるはずで、皮膚一枚向こうの明かりが夢の中に干渉してきて空はオレンジに染まり、微かに希望じみた期待を湧かせる。
なのに。夢の中の俺はどんどん体を強張らせて、また深く、触れられる世界の窓から射す微かな光も感知しないほど鈍く、込み上げる物を霧散させて、暗い重力に全てを傾けてしまう。
また暗雲に立ち込められた紫の空の下は白骨塗れだ。

久々にきやがったと思ったら。今日は調子が悪ぃな。
もう諦めてこの中でくたばっちまおうか。
しくじったんだ、またえらく底の遠いぬかるみにはまったもんだ。
…と諦めて、光も音ももう何もかんもが届かなくなるのを待とうか。
じたばたしようにも何も動かねぇ。
今回はもう疲れちまった…



―ちゃ
―んちゃーん
―う―たアルかぁ?

聞き覚えのある声。
ある種規則正しいとも思えるほど早鐘のように打つ。そんな心臓のリズムのみに支配されていた体感が、意識の右下辺りからの振動に乱される。
呼び声に先導されてそちらに力なく首を上げたら、眩い光が俺の目を射た。
少しづつ切り開かれた今まで持っていたのとは明らかに彩度の違う視界に、さっき何度も手を伸ばした空みてぇなオレンジの髪が、日に照らされてチリチリ光ってる。


「銀ちゃん!」

正面から光を受けてますます白く浮かび上がるちぃせえ顔。
その中に二つ、硝子玉みてぇに光る目の深い黒の部分に、ようやく焦点があったと思ったらその下の唇が動いた。

「いつまで寝てるアルか!」

鮮明に響く声。
頭の隅に残る耳鳴りみたいな呻き声を、一瞬にして掻き消してしまう。ここで聞こえるわけも無い音など、もう何処からも聞こえてこない。
忘れないうちにさっき感じた何かを―もう忘れかけている…―確認しようと右下に目をやれば、細い腕が肩の方に伸びている。

ああ、これだったのか…。

「―――なんだ。酸っぺー匂いがすると思ったらオメーか。」
「失礼ネ!起こしてやったのに。」

予想通りに吊り上がった眉と目尻を傍目に確認して一息つく。
そのまま半身を起こして、疲れのあまりとれていない肩を反らし、もう一息。
さっき居た場所から持ち越しの、冷たい熱をさっさと抜くために。

「銀ちゃんどうした?うなされてたアルよ?」

上体と同時にもたげた頭を追って移動したのだろう神楽の瞳は、俺の目の一層奥を覗き込んでいた。

「あーあれだよお前。ヘドロが追っかけてきやがって。」
「まじでか?!」

元々丸い目を見開いて、口をポッカリ開ける。寄った眉根を見るに、神楽にとってもそんな夢はごめんと言ったところなんだろう。
まだ少し眠気は残っているが口は回る。そりゃ頭は体より前から半分以上は覚醒してたんだから、おかしな事でも無い。

「まじでだ。しかもエイリアンと融合までしててよ。殺るか殺られるかのものっそい緊張感だったぜ。」
「すげーな!よく無事に帰還出来たアルね、銀ちゃん。」

丸い目は興奮とスペクタルを湛えてキラキラと光る。

「ん?ああ、まぁな。危うく食われちまうとこだったがな。」

「神楽ちゃーん!銀さん起きた?」

新八の声が、開け放たれていた襖の向こうより遠くから、和室の中に響く。俺の耳に届く。台所からだろうか。
突然の声にまた一つ現実が戻ってきたような気分になった。

「起こしたよー!銀ちゃんの分もご飯よそうがヨロシー!」

リビングの方に振り返った神楽が高い声を張り上げる。

布団につけた肘を上げて上半身を完全に起こし、腕を天井に伸ばして、まだ重い肩をすぼめる。
ちゃんと筋肉が疲労を感じる。同時に、しつこく全身に纏わり付いてた、現実感の無さという重みが抜け落ちていく。
跳ねていた血流もすっかり通常の波を取り戻し、心拍もいつの間にか静かになって主張をやめていた。
ここはあの日の暗い敵陣の陰でも無ければ、血の匂いに満ちた焼け野でも無い。
さっきから知っていた事だが改めて実感する。

あんなに必死に目ェ開こうと全身の力と神経を集中させたってぇのに、一人じゃ夢の出入りすら思うようになんねぇとはな。

「ほらあ、神楽ちゃんも手伝って!」

鼻先を炊けた飯の良い匂いがかすめる。朝だな。
伸ばしていた両腕を緩め頭の上に落とし、開け放たれたカーテンの方を不意に見る。耳の裏で交わされてる応酬がサッシから入る光よりも心地良く…、最後のピースがはまって、下地にあった泥土の紫は完全に姿を隠した。

丁度、酢昆布娘がこちらに向きなおり、位置の変わった俺の頭を探し当て上目遣いになったのが見えたので、欠伸一つ作ってから、とくに意味も無く笑いかけてやった。


助かったわ。