弱りきった声で銀時が電話を掛けてきたのは、最後の様子伺いからそう日も経たないある朝の事だった。 いつもは連絡先など例え銀時であれ教える事は無いのだが、先だってからの状況が状況であり、一方の昔からの性格上、いずれは銀時一人ではどうにもならない事態が起こりうる事は容易に予測出来た。 一声から一変、持ち直すように銀時の声はいつもの調子を取り戻し、当たり障りの無い世間話に口を開く。気だるげで不行儀な、平素と変わらぬ銀時の態度。 それとは全く対岸に居る自分の、蒙昧から来る暗さをこちらに伝えんでおこうという銀時なりの気遣いが、彼の張りぼての向こうの脆さを余計に際立たせていた。本人は気付かぬまま吐き出される言葉の隙間を埋める為の乾いた息。言葉の端々に態とらしく交えられた空笑いは自嘲ともとれる。 普段の銀時に電話口での無駄話ほど縁の無い物は無い。 無理をしているのはこの受話器を挟んだ遠い場所からでも簡単に読んでとれる。人を不安に巻き込まんと、態とこういう真似をする。 虚勢という奴の治らない癖だが、これが戦地ではどれほどの光明だったかは計り知れない。 だが今は奴に課してしまった日常の重さだけを耳に木霊させる。ただただ痛々しい。 「どうした?何かあったのだろう。本題は何だ?」 いつまでもお茶らけている銀時に対し、切り出したのはこちらからだった。 こちらの問いの後の、音にならないほどに薄めた溜め息をつき終わるまでの短くも長くもない沈黙。痛切な出来事を口に上らせるにあたってはそれが甚大な後援となるのであろう。存分に息を吐ききるといい。 上がってくる心拍を平になす為、次の言葉に淀みなく舌を滑らせる為、こちらにとっても有り難い休拍だ。 やはりまた、切り出したのはこちらからだった。 「連れていったらどうだ?」 「…どこへ?」 少し拍子を置かれて返ってきた疑問符は訝しみを含んでいて、回答に対し見当がついている事など充分に筒抜けている。 高杉の様子が芳しくない方向に一転したのは、銀時が最初に発した「ヅラか」の、たった三文字の短い声色ですでにわかっていた。 いや、もうそれ以前の、様子を伺いに行った際の銀時の笑い話交じりの短い報告で、すでにその兆しは薄く見えていたのだ。 兆候が現実を帯びた今、連れて行く場所など決まっていようにまだ何を躊躇うか。 まず第一に、おそらくは高杉への気遣いだろう。 そして銀時自身現状を受け入れたくはないのだろう。 背負い込んだからにはと生じた責任感と、それをはたせずにいる罪悪感。二つの狭間で次の手を見失う銀時をそもそも誰も攻めはしないのに、こういった事態に陥ったのは己の不甲斐無さからだと自分を苛む反面、まだこれがただの悪夢であるという希望が欲しいのだ。 「顔の利く医者がいる。」 「…。ふざけんじゃねーよ。あいつが病気だとでも言いたいのか?」 「お前が首を縦に振りたくないのはわかる。 だがもうお前一人で抱えられる範囲を超えているのだろう? 気休めも時に薬となる事がある。」 「…。」 「お前にとってもな。」 「あぁ?俺がなんだっていうんだ?俺ァなんともねーよ。あいつの面倒なんざなんて事ぁねぇ。 今日のはただの愚痴だ。つまんねー話につき合わせて悪かったな。」 「待て」 「んだよ。」 「…いや、なんでもない。」 「お前よぉ。引き止めといて言いかけた言葉…」 「近々そちらへ伺う。俺も高杉の顔が見たい。ではな。」 「は?な―」 性分からして奴は、置いた受話器の向こうで言葉と共に苦虫を噛み潰しているに違いないだろう。 切り掛けた電話を制止されたあげく先に切られたのではそれも無理は無い。 だが電話では埒が明かない。 老いた狼は前を跋み後ろに躓く。判断力を失くしている今の銀時も。同じだ。 だがまだ疲弊や狼狽を隠そうと声を張る。ここは無理にでも乗り込んで連れて行くしか無かろう。 そう自らの座金を締めて、何故か長い息が漏れる。 …最良の選択だと思ったのだが。 あの後方策を重ねて確保した高杉の身柄に生気は無く、喪失の再来を拒絶するかのように瞳は濁っていた。 悪態をつきもしない悪童は、ただそこに立っているだけで心胆を寒からしめた。奴のどのような悪行を目に耳にしようとも、あの時のように骨の髄まで凍らされた事は無い。あの時あいつはすでに苦界より下に足を浸けていたのかもしれない。絶望を突きつけてくるような虚無が、あいつの身を取り巻いていた。 あの冷気に触れ、自分では不足である事を痛感した。 高杉の奪回のその理由など、突き詰めるとそれは俺自身のエゴでしかない。 だがもう何かと自分の後を追い掛けてきていたあの頃とは何もかもが違っている。ここへ来てあの甘やかな日々の延長を高杉に課し、それを処置だと謳えるほど、俺も傲慢な人間では無い。 そこで浮かんだのが、他でも無い銀時の顔だった。 それが本人無自覚のものだから逆に二人を生活させる事は、そういった気持ちに反発するエネルギーを生んで、高杉自体を活性化させる事がかなうのではないかと思っていた。 辰馬に預けると春雨の息のかかった者とめぐり合う可能性も無いとは言い切れなかった。なので辰馬は無理だった。 白い夜叉と黒い獣。相反するあの二人の間には、反発と同じだけ強くお互いを惹きつけ合う力が介在するらしい。幼き頃より共に学び傍にいて戦を経、理屈はわからなかったがずっと、確かにその存在を感じてきたのだ。 陰が無ければ陽は成り立たない。それと同じ事なのだろうか。 一時の空虚を覗いた後、また電話のベルが鳴り響いた。 出るまでもなく先方の顔が浮かぶ。先程言いかけた言葉を遮られたままではいられなかったのだろう。また一息。溜め息なんぞという物をついてから受話器を取った。先程から自分らしくもない。 「桂だ。」 「勝手にうち来るんじゃねーぞ。来ても会わせねーから。じゃーな。」 こちらが返事をするより前に受話器の向こうは、定期的で単調な機械音に切り替わっていた。 わかりやすい奴だ。 命に差し障るような事態では無くとも、高杉の状態はよほど目もあてられない物と見る。 ← 前 |