翌々日の朝(といっても最近の朝といえばもう午後だ。)、高杉は機嫌が良くないらしい。
いつまで経っても煙管を離さない。火のついた草を窓から投げては新しいのを詰め、さして吸い込みもせずにまた捨て、同じ事を一日中繰り返した。そのうちに役目を果たしていない煙草盆も窓から投げ捨ててしまうのではないかと、リビングのソファーから開いた襖の奥を眺めていたがそれは無く。
包帯は前夜のままだ。

前日の朝、緩みきった包帯に手を掛けると眠そうに頭を振った。けど前髪の下の目はらんと鈍く光ってて、拒絶以外の何物をも映していなかった。
もう一度手を伸ばすと掴みかかってくるだろうと簡単に予測出来たので、放っておいた。着替えをとれと低い声で呻く。言う通りにしてやった。新しい着物に袖を通して数時間後、奴は風呂をわかし、洗いたての体に昨夜の着物を纏って出てきた。
夕、新しい包帯は何処だと聞くので、引き出しから出して巻いてやった。まだ使っていない部分の白を至極上機嫌風に、両の掌で伸び縮みさせていた。次ストックを買う時はストレッチの物も混ぜておこうと思った。
夜、包帯は見るも無残にそこかしこを縦裂きにされて、申し訳程度に左目を覆っている一巻き分より先は、首のあたりにどうにかぶらさがっていた。

前々日の夜、心臓の上に高杉の、包帯で塞がっていない方の耳があった。しばらく髪を見ていた。首を振るのをやめた後、奴は今度は俺の袷から指を入れ、脇腹のあたりを撫でてきた。しばらくそうされるままにし、天井を見つめてから指を伸ばし髪を掬うと、奴はその手を払いのけ俺の上から転げ落ちて離れ、月の無い窓の外を見ながら、やがて寝息を立て始めた。
冷えるといけないので薄手の肌掛けを取り出し、被せたその中で俺も眠りについた。



今日の朝。

「着物が欲しい。」

と言った。
昨日とは大違いに表情のある面に、一日ぶりに聞く声に、戸惑いを気取られるより先にそれを隠してしまおうと眉を少し顰めてみた。

「は?何言ってんのお前。着物ならたんまり持ってるだろ。」
「新しいのが欲しい。」
「ねーよ。」
「買やぁあるだろ。」
「アホか。どうせあん中にまだ袖通してねーのが入ってんだろ。」

実際着物は、辰馬やヅラ…とくに辰馬が、高杉の好みそうな物を大量に買い込んでこの家に送ってきている。

「新しいのじゃねえと着ねぇ。」
「じゃあ着んなよ。」

そう言い放ってやると高杉は今着ている物の帯を解き、肩を開きすとんと衣を落として窓際に立ち、カーテンを空け窓の鍵に手を掛けた。

この野郎…。こういう我侭を今までさんざ通してきやがったんだな…。
癖をつけた野郎の数なんざ、到底予想する気にもなれねぇし、俺はそいつらじゃねぇ。
こいつを甘やかすと碌な事が無ぇ。
…しかし口論するのも疲れる。何か適当に見繕ってくりゃあ満足だろう。
もう俺の負けでいい。

「わーった。買ってきてやるよ。」

立ち上がり、外着に片袖通したところで高杉がはんと鼻を鳴らした。

「買ってくる?てめぇが?
 アッハハ!冗談じゃねーぜ、どんな趣味悪ぃの選んでくる気だよ。」

窓から振り返り、見事にすっぽんぽんで眉間に皺を寄せ笑っている。
なんちゅー姿だ。

「何見てやがんだァ?気色悪ぃ。」
「あ?今更お前の体なんざ見たってどうにかなるわけでもなし、」

嘘のような嘘でないような。売り言葉に買い言葉。
咄嗟に目を逸らさなかった代わりに瞼を固定した自分が自分でもよくわからなかった。
何にせよ、別に下半身が動いたわけでもない。野郎の裸。
ただ…下卑た者に向けるような薄笑いよりも、肝臓の上辺りの骨が目についた。

「ちょっと待ってな。なんか羽織っとけよ気色悪ぃ。」

仕方が無い。もう俺の完敗でいい。俺は婆さんとこに降りて、適当な男物が無いかと尋ねた。
俺の物を羽織らせると目立つし、何より…、余る。
記憶を辿る時にする仕草で腕を組み宙を見る婆さんにこう付け足した。

「とにかく地味なのな。」

「お前の背丈にゃちと短いが…いいね?」
「ああ。頼むわ。」

婆さんが奥に入り、出してきてくれた一揃い。
年月は経っているがそれは見事に上品に仕立られた物なのだろうと思う。
短く礼を言い、開店前のお登勢を出た。
暗くも明るくもない青碧は、梅雨の季節にも似合いで曇り空にかざしてもよく馴染む。


和室に戻ったら高杉は相変わらず素っ裸で、端に寄せきってなかったカーテンに背をもたせ、窓の外を見ながら煙管の煙を飲んでいた。
室内は出た時と一変して極彩色の洪水に床を覆われている。箪笥は段々畑が絵の具を噴いたみてぇになっている。
ベランダの格子で区切られた往来には、この大量の布より目を引く色でもあるっていうのか。
どうせ見ていないだろうが踏まれるよりはましだろうと足で掻き分け、それらより随分と濁って落ち着いた色の着物を突き付けて、声を掛ける。

「ほら。これ着ろ。行くぞ。」
「あぁ?どこへだァ?」
「着物、買いに行くんだろ?」
「外?めんどくせぇ。」

訝しげな顔を斜めにして俺を見上げ、詰るように吐き捨てる。

「着物ならそん中あるだろ。」

と、洪水の源である自分用になった半開きの引き出しを指してそう言った。

そうだな。
着物なら家中の壁紙にしても余るほどあるな。
俺と一緒に歩くだけで目立つだろうし、お前は絶対出ない方がいい。


婆さんに、用意してくれた着流しを返しに、さっき鳴らしたばかりの階段を踏んで下に降りた。
路肩にあったゴミ箱を思いっくそ蹴り飛ばした。
中にはろくに物が入ってなかったらしく、ガスガスとプラスチックが転がる音のみが、かぶき町の喧騒に吸い込まれていった。


「すまねぇ、これ使わなくなったわ。」
「そうかい。」

婆さんは煙を一つ吐いて煙草を消し、俺の差し出した着物を受け取ってまた奥に入る。
その後姿を目で追い、余計な事を何一つ探らない婆さんに有り難さと申し訳無さを交互に感じた。
おそらくあれは亡くなった旦那のを出してきてくれたんだと思う。ありがとう、すまない。



高杉の機嫌は、12時間中二度も三度も、多いときには二十六度変わる。
かと思えば以前のように不機嫌に黙り込んだまま、なんの高揚も見せない日もあった。
俺からは行動にも一貫性が見えない。本人はわかっているのだろうか。

これを除けば俺達の日常は、まるであの日確かに感じた恐怖が嘘だったかのように平凡で。
粉塵が飛ぶ事も無ければ、肉の首が壁に怨虚と転がる事も無く。まだたかだか数日だが、それ以前よりもずっと『同居』と呼べる日々を送っている。
会話の数も増えた。
全く噛みあわない会話の数が。





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