湿気に肌をやられ熱に臥せっていた高杉が、回復一番・開口一番に口に上らせた名は、つい最近まで奴の傍らに居たあの男の名だった。
四日ぶりに聞く単語といえる単語。ろくに寝ずな頭も殴られたように冴えた。
黙っていると高杉は、こちらに少し顔を傾け再度その名を口にした。

「万斎の野郎どこ行った。」
「…。
 あいつは行方知れずだ。」

ヅラが目の奥を蛻の殻にした高杉を連れてきて以来、馳せていたはずのプロデューサーとしての名もメディアに流れる事はとんと無くなった。
死んだか。それならば大々的な報道があってもおかしくない。自ら存在を消したか。
とにかく俺は深く知らない、知りようも無い。ヅラの野郎がどこまで把握しているのかもわからない。
何より…情けない話。知る気になんねぇのが本音だ。

「そうか。」

ゆうるりと身を起こす。この数日のうちにさらに奪われてしまった体力が平衡感覚まで蝕んでいるのか。瞳孔の様子がまだおかしい。
俺を背に背骨を立てる。

「邪魔だ、どけ。背中に日が当たらない。」
「はいはい。」

今日は日の照りも良く、雨の合い間の強い光がベランダのカーテンを透かしていた。
立ち上がってカーテンを引く。ガラス越しとは言え、久々の光は目を刺す。
風通しをと、窓の両端を僅かに開いて、そのまま窓際に腰を下ろした。

「…あとの」
「わかんねぇ」

高杉の言葉の先はわかった。返事のしてやりようも無かった。

「そうかぁ…。腹減った。」

突拍子も無い言葉に驚く。だが驚く方がおかしい。
この四日、ほぼ水分しか与える事が出来なかった。

「ああ、ちょっと待ってな。」

日の前で腰を伸ばす。陰になったのがむかついたのか、高杉は…ち、と舌を打った。
高杉の背に影を落としていた場所をどいてやり、やつの脇を通って台所に向かった。
寝汗で水分を含んだ細い黒髪が、白くなった項を離さんとばかりに張り付いている。
前回の激しい破壊行為以降、修繕を済ませ綺麗にはなったが使ってやる頻度の減った、小奇麗なままの寂しい台所に立った。
消化にいいもんをと薄い粥を作ってやる。
火をとめ、湯気が薄くなるまでしばし待つ。

以前の物がとうに全部駄目になっていたので、先日新しく買いなおした盆に、小ぶりの器に盛った粥と蓮華を乗せる。
浅漬けの一つもあればよかったのだろうが、今は用意が無いし、四日食わずの胃には固形物は重いだろう。
コップに水を注いでそれも乗せて。あと食い終わった後の熱冷ましの顆粒。高杉の待つ和室に戻る。

「ほら。こんぐらいなら喉通るだろ。」
「なんだぁ?汁ばっかじゃねーか。」

椀の中を覗いて高杉が溢す。

「あたりめーだろ。何日まともに食ってないと思ってんだ。
 粥が不満ならウィダーでも買いに行ってやろうか?」
「ふん。」

あれを吸い込む力が今あるかどうか、それはこいつもよくわかってるんだろう。俺もわかってた。
だから少し意地悪のつもりだったし、粥は薄くとも良い味をしているという自信もあった。

一匙掬い、口に運ぶ。ぬるくもなく丁度良い熱さになっているはずだ。
でも蓮華が触れた口唇の端は、突っ撥ねるようにぴくと引き攣り、少し蓮華を口から遠ざけた。
飯から遠ざかっていた病後の身にはまだ熱かったのだろうか。

口の前で止まっている蓮華を奪い、上に乗ったやわい飯を一齧りする。火傷には遠いが、飯は確かに少し熱かった。
ふぅふぅふぅと息を吹きかけもう一齧りして確かめてから高杉の口に運ぶ。
今度はなんの抵抗も見せず、蓮華の上の物を一浚いし、口を結んで片側が僅かに丸くなった頬を上下させた。

「美味い。」
「あたりめーだろうが。俺の天才的な塩加減舐めてもらっちゃ困るぜ。」

もう一匙掬おうとしたら、あからさまに迷惑そうな顔をして高杉が蓮華を攫った。

「自分で出来らぁ。」

背を日にあてて椀の方に少し身を丸め、蓮華に乗った汁と米に息を吹きかける。
食物の温度にも慣れてきたようで、息を掛ける回数を減らし、しまいには掬ったそのままを美味い美味いと子供のように声を上げながら口に運ぶ。
薄い粥は米の甘みと、それを際立たせてやる適度の塩が命なんだよ。あとは火加減と水。他はなんもいらねぇ。
誰かが怪我をして床に臥せるたび、よく作ったもんだ。お前も食ったろ?
俺も熱出すたび、松陽に何度も食わされた。

「…んだよ…これは。」

高杉の声音が変わる。ん?何か間違った物でも入っていたのかと目をやったとほぼ同時に

「…ごふっっ」

口元を手で覆い、肩を窄めた。
慌てて傍らに置いてあったコップを取り高杉の口唇に運び傾ける。
ゴクリ、一つ飲み。飯ごと噴き出した。

「おい?大丈夫か?器官入ったか?」

おろおろ…今目の前に俺が居たならば、間違いなく俺の様子をそう表すだろう。
そう、おろおろと。左の掌を前のめりに折れた高杉の背に乗せるかを迷い、おずおず高杉の眉間を覗き込む。
僅か数秒にして目があった。上目遣いでえらい睨んでやがる。
潤んだ幕に覆われて赤味や黄味を帯びて見える白目の中心は俺に据えられ、ぐつぐつとその小さいこげ茶の中で、血を沸騰させてるようだった。
パン、と音がしたかと思ったら、俺の右手にあったコップが壁を叩き粉々になった。
砂を撒いたような音の方を向く。自然と高杉の顔は俺の側面にきて、耳に高杉の上がった息が刺さる。

「何しやがるんだよてめぇー!」

鼓膜をつんざく。その怒声を上げるのとどちらが早いか、高杉は火薬のように跳ねて俺の胸倉に掴みかかってきた。とても病み上がりの身とは思えない気勢。
俺が何かしたのか?水が余計だったか?…そんな事を考える前にこの胸倉を引く腕を放させないと。俺の服は、胸から腹まで粥の飛沫やらなんやらでドロドロだ。噴き出した飯は思った以上に大量だったようで、高杉の胃の中は今ほぼ空だと思われる。もっともっと薄くするべきだったのか。
拳を覆ったり、痛くない程度に手首を掴んで揺らしたりするが、胸倉を掴む拳は一向に揺るがない。これもまた病み上がりとは思えないえらい力だ。

「なあ?高杉?どうしたんだ?」

顔を覗き込む。
返事はしない。
目が…瞳孔が針のように尖って、瞳はこちらを向いているのに、何処を見ているのか判別がつかない。

「な?高杉?高杉?落ち着けって…なぁ高杉。」

何度も名前を呼ぶ。徐々に音量を上げて。

「うるせぇ!いらねぇ音立てんな!」

高杉の叫び声と俺の衣服の裂ける音と。
掴み場所を失って倒れた高杉の音と。

石を研ぐような荒れた息の音。

「たか…」
「うるせぇ!雑音立てんなっつったろ!」

伏していた床を離し、のろのろと立ち上がる。
足の力まで弱っているのはこちらから見ても一目瞭然で、倒れやしないかと手を伸ばした。

「大丈夫なのか?噎せて…」

その手を高杉の眼光が制止する。さっきまで何処を見ているかわからなかったのに、一点に視線を集中されると、見られている場所に一瞬電気を通されたような錯覚が走った。

「うるせぇうるせぇうるせぇよ。
 汚ねー音なんか聞きたくねーんだよ。
 てめぇの声もだ。汚ねぇ汚ねぇ、出て行け!」

首に蹴り一発。頬の肉が波打ったのが自分でもわかった。

「て…めぇ」

握りかけた拳を解く。
仰のいた首を正し見上げると、やっと…、また高杉は俺の目を睨んでいた。

「わーったよ。」

布団の外に転がった椀を拾い床に散らばった物を戻し、欠けた硝子をかき集め、それも椀の中に入れる。
割れなかった椀と中に詰まった傷み物を盆に乗せ、目を向こうに剥いて仁王に立つ高杉の後ろをすり抜けて和室の仕切りを閉ざした。
だが張り詰めた空気は、遮断した部屋から一歩二歩離れてもまだ、盆に後ろ髪に俺の足に、絡まり付いて着いてきていた。

新しくなった流しに、最初の割れ物。
指を切らないよう注意を払いながら、戸棚から出した袋につめてゆく。




晴れていた空はやはり崩れたらしく、遠くで雷鳴がする。
テレビのノイズも無いここは…とても広く。社長の座も居心地が悪い。机の上に組んだ足先の間で揺れる蛍光灯の紐をゆらゆら見つめ、さっき脱いだ服はこの雨が止むまで諦めるか、コインランドリーに持っていった方が賢明か。考えた。

「銀時ィー…銀時ィ?」

襖戸の向こうから細く、甘い声が聞こえる。雨音にも掻き消されてしまいそうな。
それは幻聴かと思うほどに、最後に聞いた音調とは打って変わった響きをしていて、俺は自分の頭を疑い、足音を潜めて襖に耳を押し付けた。

「銀時ィ?どこ行ったんだ銀時ィー」

語尾ごとに少しづつ大きさを上げる声は幻聴ではなかった。
たしかにこの戸の向こうで俺の名を呼んでいる。
戸を開け半歩中に身を入れる。

「なんだ?俺向こうに居ただろずっと。」

声に振り返った顔は口を半開きにさせてきょとんとしていた。

「…着替えたのかよ?」
「ああ。」

お前が吐いたからな…。

「ふーん。」
「お前も着替えるか?」
「着替えねぇ。」

「こっち入って来いよ。戸、閉めて。
 真っ暗だぜ。月も出ねぇ。」

大人をあやすように甘いままの声で呼びが掛かる。
まだせいぜい夕刻かと思っていた空は、とうに暗闇を迎えていたようだ。臥せっている間、ネオンに眠りを邪魔させてはいけないと、カーテンは光を遮る能力に長けた物に変えた。けどそれは日の出ていた時に開いたまま。あの煩いネオンサインどもは高杉の目にはどんな意味も見出してはもらえていないのだろうか。
言う通り戸を閉め、高杉の隣に座った。
こちらを向いた高杉からは、ぷんと、さっきの吐瀉物の匂いがした。俺の服に付いてたのが移っちまったのだろう。

「風呂、入るか?」
「入らねぇ。」

逆光にも目が慣れてきて、高杉の顔が笑っているのがよく見えた。
笑いながら伸ばした手が肩に覆いかぶさり俺を押し倒す。
袷の開きに頬を擦り付ける。
…他の奴にはどうだったかなんて知りゃあしないが、俺にこんな風に甘えるのは珍しい。
頬だけでなく額も、顔全体を開いた胸に撫で付ける。
包帯がずれてしまうだろう…包帯ぐらいは替えてやらねーと。
…明日で、いいか。





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