「銀時ィ、コレ見ろよ。」


珍しくお声が掛かり、魂のしっぽまで出ちまいそうなほど開いていた口の中、反射的に涎をすする。
一呼吸置いて机から肘を離し、椅子を軋ませ、テレビの音量を下げる。
余程機嫌が良いのか。何を見せるつもりだ?

「あ?どうした?」

わざわざ避けさせる手間を省いといてやろうと、最近は高杉が和室を陣地にしてる時はリビングに居場所を決めている。
ここなら奴が和室から出てきて画材を取りに行く際にもほぼ奴の目に触れる事は無い。
誰んちだよここは!…いえ、高杉基金から家賃の大半が出てる今、俺んちだぞとは胸を張って言えません。

早朝肩先を冷やす空気に一度目を覚まし雨を確認して、あーもうこれ駄目だ。寝よ。と、再び瞼を下ろした時は高杉はまだ眠っていたと思う。
正午まで幾許かの猶予がある頃に二度目に目覚めた時には、もうすでにごそごそと起きて活動していた。
俺は雨の日特有の物憂げな気分に身を任せて、そのままソファーでゴロゴロ。昨日ついでに買った週刊誌の紙面を、頭に入れるでもなくただ文字に目を通した先、少し興味をひかれるコラムを見つけたのをきっかけに体を起こし、読み終えて玄関に新聞を取りに行ってから机に移動した。

仕切りの戸に手を掛けると、清涼な横顔にいつになく晴れたような笑みを湛え、真っ直ぐに前方を見上げてる。
やはり機嫌が良いらしい。不規則に濃淡をつけながらも常にどこかに滲み出している翳りが綺麗に引いていた。
一辺の濁りも無い。久しぶりだな。俺の頬も自然と上がり、半端に開いた襖戸に手を掛け一息に踏み出した。と、同時に時間が止まった。

和室の仕切りを通って、目に入った肉色は、一辺の壁を覆いながら、青い血を噴き出していた。

何のかたちを取り留めてるわけでもない。だが、その無形の輪郭の中に打ち付けられた無言の惨憺に俺は口を結ぶ事も出来ず立ち尽くしちまった。

見開いた瞼が、虹彩を上下とも剥き出しにして張り付いているのが自分でもわかった。
これは首だ。無碍に胴体から切り離されて転がる首だ。



ゾクリとして耳の裏付け根辺りが凍った。

「クク…どうしたんだよ?銀時。」

はっと我に返り、眼前が腐敗しかかった食用肉の塊にすり替わった。

「クク…ははは!ふはは!あーはははッ…!」

突然、ここしばらく耳にしなかったような大きな声を上げて上体を仰け反らせる高杉。
どうしたんだ?何がおかしいんだ?

「なんだ?俺そんなに間抜け面で見てたか?」
「ハッハ!アーッハハッハッハ!!」

急に降り出した夕方の豪雨みたく部屋に響く癇声。と共に息を吐き出し過ぎて腹が痛むのか、脇から庇うように腹部に腕を回すが、尚も笑いをやめようとはしない。
どころか、脚を投げ出して座っていた体勢も保ってられなくなったようで、上体を横に折ると同時に床に崩れた。前髪が邪魔して目の辺りがよく見えないが、相当に破顔している。おいおいこいつこういうキャラだったか?
しゃくりあげるように声も息も弾ませ転げまわる高杉の狂態がさっき一瞬見えた物と重なり、青い失血を甦らせながら恐ろしく脳裏を打ち付ける。

「よぉ銀時ィ、ア、アッハ…!テ、テメェ、何を見た?…ックックック!」
「…何ってお前、これお前、俺がそこのスーパーで買ってきた安い肉だろうがよ。あと春菊と。」

言葉の調子が普段少し砕けた時の高杉とそう変わらない事に胸を撫で下ろした。しかし何故か口は平然を装おうとして品目を述べ上げていた。
…こっちが聞きてーよ。これは何なんだ。

「クハッ…クックックッ―」

…聞いてんのか?

「おい…」

…聞こえてんのか?!

叫びに似た笑い声はやまない。
体中の血が下がるような感覚。本能的に、やべぇと思った。
なんつーか。ダムの壁壊した大水みてーだ。雨やら土石流やらで破壊力のあるもんも汚いもんも綺麗な物も、限界まで溜め込んで破裂したみてーな…。

「おい、高杉。」

…今こいつ、俺に触られても平気だろうか?
言い訳にしか過ぎない。触って肩を抑えてみてやまなくとも、もし殴りつけても変わらなかったら…、そういった寒々しい短慮に身を竦まされ、手を伸ばす刹那を躊躇った言い訳だ。
次の悪寒がざわっと肝を撫でる。そんな事は言ってられねぇ、そんな場合じゃねぇ。なんでだ?わかんねぇ。けど「もし」とか「たら」に気後れしてる場合じゃねえ事はわかる。
後発して湧き上がった幾分前向きな不安に背中を押してもらい、肩を擦り付けるみたいに小刻みに足元で揺れる高杉の体を床から引き剥がした。

目が潤んでいた。
哄笑に付随してこみ上げてくる、涙とは違う分泌物が、高杉の瞳の表面をキラキラとぬめりつかせているように見えた。

「おい!」
「ハハッ!ッッハハッ!ハハッ――アーッハッハッハ!」

さっき、たおやかにすら見えた瞳は、その奥に沈み、阿鼻の中に押し込められていた。

産声にも似ている。
何かが今、新しく噴き出したような…。


紅潮して熱を放ってるみたいな頬とは打って変わって指先は冷たく、ベランダの窓を屋根を打ち付ける雨に奪いさられたみてーに白かった。





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