-背板-



高杉は昨今から絵を描き始めた。

絵と言っても絵の具なんてものが万事屋にあるはずもなく、冷蔵庫から食材や調味料を出してきては、和室のふすまや壁に擦り付ける。
細かくちぎった薄桃色の豚肉をペタペタと撫で付けるがすぐに粘力に限界がくるようで、あっさり床に落ちていく。
試すまでもなく吸着力が無いと判断される菜の類は、ふっくらと炊けた半透明のもちもちした澱粉のかたまりを磨り潰したものでコーティングされる。青い色はこの絵画にさして必要ではなさそうだが、すっかり握力の落ちてしまった拳を緩めたりきつくしたりの間、かたちを失っていくそれの膜が掌や指の股に張り付いて残るのが気持ちよいのだろうか。一度始めると糊を作るという本来の目的も忘れ、それに執心しているようだ。
丁度そろって朝の食卓を囲めるようにと、時間を計算して仕込んだ米はお互いの胃に納まる事無く、高杉の創作衝動と静かで暴力的な意欲のままに、従来の役目などまるで無かったかの如く、より粘度を引き出すため嬉々として明後日の方向を向いた目の高杉にぐっちゃにっちゃと磨り潰されていく、百姓の苦労も水の泡じゃねーかと、銀時は唇だけを歪めて、短い吐息交じりの声を吐き、寄せた眉間より伏せた瞼の奥、疲れた眸を鈍らせて笑う。

少しでも笑えるのは、力なく半眼ぎみの高杉に理解し難いとは言え表情が残っている事を確かめられた安寧からだろう。

こうやって目の前でそこいらの画家も思い及びもしないような画材で、銀時から見れば人の体を裏表返したような得体の知れない肉厚の凸凹だが、物を構築しようと夢中になっている、そんな何か一点を取り付かれたように眼球をニラニラと潤わせて見詰める高杉を見ていると、たとえこれが世間一般でいう尋常ならざぬ行動であっても、高杉の眼のよどんだ眼の奥、光るものが見えるなら、銀時は好きにさせてやりたいと思う。

朝食と予定されていた時間に銀時が珍しく入った仕事に出、その日の仕事を終え玄関をくぐり和室の扉を開いても返事もしない。どれだけの時間この遊びに没頭していたのか、いつまで続ける気なのか、振り返る様子も見せはしない。
何度も落ちては貼り付けられたであろう肉片が腕を撫で、朝よりも増した臭いたちそうな嫌らしいぬるみでもって、高杉の手の甲から肘までを這う。腐敗を迎え醜く変色した己の貪欲さを知り、撚糸を垂らしながらゆうっくりと、高杉の細い腕を中心に緩慢で怠惰な螺旋を描き、白い肌の上をうねり、嘗め回し尽くして床に落ちる。意思の無い生肉が天から地へ自然の摂理のまま流されている、ただそれだけの事だ。が、気分の思わしくない時にはこれがきつい口臭を放ち濁った唾液をふんだんに分泌する厭らしい舌のように見えて、その持ち主が高杉の腕だけではなく全身を余すところなく賞味して、己の腐った欲望でその奥の穢れない部分にまで躙り込み貶めようと、高杉の弱った魂の依り代の情動を誘う部位を愉しみながら探っている、そんなイメージが米神を走り抜けて、高杉を今すぐにそこから突き飛ばし、外道の輩を細切れになるまで引き裂いて踏み殺したくなり、びくりと動いた自分の体の振動で我に返る。

―それは俺なんじゃないか…?と。

昔、戦争をしていた頃、自分も夷敵を薙ぎ払う志士だった頃、フロイト曰くのリビドーと押し隠した恐怖に負け、夜な夜な高杉の肌を貪った自分を思い出し、今しがた躊躇無くここに在る権利を奪って無様な惨塊にしてやりたいと、そう大人気なくも呪った腐った肉片と過去の自分の行動との近似に辿り着いて息を沈める。
矛先が自己の中に向くや、とき解されたように緩む殺意に対し自失しようとする都合の良い自分の思考形態を知るたび、銀時はただ呆然とする。
それを認知する毎に、積み上げられる自責がやがて音を立てて自らをすり潰しそうで、指先からその軋みが伝わってしまうのではないかと、性になんら繋げるつもりも無い日常の合図ですら高杉に触れるのを躊躇う数秒が長くなる。

高杉の温もりを欲した。混じり気無く高杉を抱きたいと思った。死ぬつもりは無くとも覚悟はあったが、死ぬ前に何度でも生きてる人間の息吹を確認したかったし、戦場と同じくらい昂ぶる体温も人の体から感じたかった。ただ純粋に高杉を想った結果、高杉を抱きたかったし抱いた。どちらかの今際の際にもこうして、お互いの温もりに包まれながらと現実になるはずも無い弱音を一方的に夢想したりもした。
明日をも知れない生活の中こういった衝動に駆られるのは、遺伝子を後世に紡ぐ生命体として本能に基づく限り当然に生まれる心理であり、それを実行に移すのも無味乾燥に視察すれば種の保存という切り離せないアニマリズムに則った行動をとっただけと言える。そうでなくとも好意を寄せる対象と深い部分で繋がりたいと望んでみるのはごく自然の事である。

然し、性交渉だけなら誰でも良かったわけじゃないと言い切れないのも、銀時自身は知っている。
そして高杉が自分に対し、自分と同じくらいの気持ちを持っていたわけでは無いという事も。
心の部分を抜きに体のみを考えたとしても、覚えて少し経った快楽を他の誰かの体によって得、さらに奥を知りたいと色気づくのは世間的にもさして珍しい事では無いらしい。ましてや戦場を這う毎日だ。現実原則など追う余裕も無ければ自愛が獣的に頭をもたげてくる。それを抑える事の困難は、聖人君子ならいざ知らず、若者なら尚更だろう。だが、その部分が命のやりとりから遠のくのと交替し考えに耽る時間と成り代わった今更になって、銀時の回想の秤を大きく傾けるようになった。銀時は決して口や態度には出さないが。





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